二兎を追う者は一兎をも得ず

さて、1月8日である。正月が過ぎた。

去年内になんとか様々な禊(アルコールによる失敗の回収)も行われ、非常にすがすがしい気持ちで新年を迎えたのもつかの間、今非常に私は悩んでいる。

何に悩んでいるかというと本当に致命的なのだ、何もしないことで悩んでいるのだ。

ライブハウスのバイトは年初め入れるのが11日とかなりゆっくりめであるため、私はこの長い休日を有効に使い切ることを目論んでいた。

何しろ12月の中旬までは何かとせわしなく、何の予定もない日というのを一日たりとも作ることができなかったからだ。

しかし今日「明日の私も所詮は私である」という格言を残しておこう。

あまりに浅いのできっと年に数万人くらいは思いついているに違いない。

 

 

そう、明日の私も所詮は私なのである。心のどこかでは気づいていた。焦りも常に抱いている。しかし、それでも何もしなかった日の次の日はもっと何もしないのだ。

そもそも睡眠時間が狂っている。

今このブログを書いているのは深夜の4時46分なのだが、目はしっかりシャキッとしている。当然のことだ。私が今日目を覚ましたのは夕方の18時半だからだ。

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夕方の18時半に目を覚まし、今日の話題の中心である「何もしてないこと」という相当にくだらなさすぎる上に致命的な相談を毎日頑張って働いている社会人の友人に電話でめそめそと話し続け、「よし!あたしゃ今日から頑張るよ!」と言って前向きに電話を切り、ツイッターのほぼ全く使っていない隠しアカウントで例の前澤なんとかの100万円チャレンジに応募をした。

働かずして100万円が欲しい上に自分が働かずして100万円をもらおうとしている人間だということを友人やフォロワーに見られるのが嫌だったのである。

二兎を追う者は一兎をも得ず。謎の誰もフォローしてないアカウントでこっそりと給金を志願した悲しすぎる私は100万円を得ることはなく、このブログをわざわざ読んでくれるファンに「あ、こいつ、100万円もらいたかったんだな…しかもそれを隠ぺいしようとしてまで…」と思われて終わるのである。実に悲しい。

実は昨日は友人のライブに行った後に原宿のバーで飲んでいた。

 

 

年末にかけてひどい酒乱っぷりを披露して周りを巻き込んでしまった私はそれから反省し家では一切飲まなくなった。

そしてアルコールによる第三形態「覚醒」を手に入れた。

「覚醒」を簡単にいうと、体内のアルコール濃度が非常に高くなってきた状態でも精神の手綱を手放さないでいることができるのである。しかし、これはいわゆる「気を張る」ということをしている状態で実際のところ諸刃の剣であった。

どういうメカニズムなのか、たしかに酔いすぎて言動がおかしくなったり記憶が飛んだりどこかに突撃したり知らない人に話しかけまくってしまうということはなくなったのだが、今までそこまでなかった宿酔いという現象が頻繁に起こるのである。

二日酔いになるまでもなく気持ちが悪い、もしくは酔いながらトイレに走って吐く。

もしくはダウナーになることである。

私はアルコールを摂取すると一人の時以外は異常なアッパーになるのだが覚醒中の私は精神の手綱を手放さないために相当なエネルギーを使っているのか、認識できる世界がスーッと旧落下していくのを感じていく。

もうこうなってはだめなのである、自分を救えるのは自分しかいないのだということを真に突き付けられる。

まさしく二兎を追う者は一兎をも得ずである。アルコール修業は甘くないのだ。

そういう風にして私は昨日、「あ、今精神が落下している」ということを感じ取りながらなんだかすべてがどうでもいいような気分になってしまって終電を逃し、原宿から6キロ程度の距離を歩いて帰ることにした。

寒い時期の深夜は都内でも道に誰もいなくて穏やかだった。

 

 

 

私はその一時間半程度の散歩道を「何もしない自分がなぜ生きているか」ということを真剣に考えることに使った。私は落ち込むときは大抵自分という人間の無力さとそこからくる明日への不安が主題となる。

おそらく自己に対する過剰な期待が原因である。

子供の時に夢とか希望を知らなかった反動で、大人になって「私は天才なのだ!こんな絵も描けるし文も書ける!おまけに思いやりもある!!」と言っているうちに、そう簡単に変わってはくれない現実がその「絵が描ける」だとか「文が書ける」だとかの要素をそうでもなかったことにする材料に変質してしまうのだ。

もちろん私は天才というのは誰かに認められたくて行動した結果ではなくやめたくてもやめられないほどにその行為に没頭することができるエネルギーなのだと理解している。

 

 

 

しかしそれがどうにも、ロールプレイングゲームの最初の場面だとかで、ただ広場を周回することしかプログラミングされていないモブが何人もの冒険者が飛び出していくのを見ていくうちに「自分もどこかへ行くことができるのかもしれない」と夢を見たのち、自分のその脚が広場を出るように動いてくれることはないのだということを知ってしまったような絶望感を得るのだ。

そうか、だから私の脳にはもともと夢や希望などの単語は認識できないものとしてしか存在していなかったのにいつのまにかバグで勘違いを起こしてしまったのか、と。

もし私がこのまま広場で周回をし続けるモブを全うしなければいけないのだとしたら、この、どこにも行かないのに歩き続けてしまう脚をどれだけ止めてほしいだろうか。

もう何度も何度も景色として見続けた広場に咲いている小さな花を見つけることや、冒険者たちに憧れと希望を託して広場の向こうにあるに違いない世界がどんなふうだったらおもしろいかを想像してやりすごすことが、どんなにどんなに残酷なことか。

 

そんなことを考えながら歩いていたら家に着いた。広場を出ることのできないモブの何が残酷かというと「習慣を抜け出すことができずにただ同じ風景を見続ける」ことである。

現実はもうちょっと丁寧に作りこまれているようで、私はぼーっとしてる間に都内を6キロも歩いてまったく何の難もなく家にたどり着くことができてしまった。

 

そうなるとなんだか勝手に急降下した精神が持ち上がってきた。

もしそのモブが広場で見つけたいつもの小さな小さな花がすごく大好きであったりして、その花を毎日見ることが本当に心底幸せであるならその「抜けられない広場」は楽園である。

それが私にとっては絵を描くということであったりして、なんならこの世界はもうちょっと大きいので広場は広場なりに広くて見てきた景色とまったくちがうことをしても道は一応ちゃんと続いてたりするんだよなあと思った。

 

私は欲張り者のモブなのでそのお花を見ながら「あー前澤なんとかの100万円が当たってガッデムハウスとおさらばして自分の絵の世界を着ちゃったりとかして美味しく酒飲んじゃいたいなあ」なんて思いながら朝を迎えるのである。

 

自分の力でやれ、ボケっ!とだれか言ってくれ。

 

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