家族に向けられてきた悪意に文章という形を与えて残したい①

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最近、私はいわゆる「スケープゴート」だったのだということに気づいた。スケープゴートとは「生贄の羊」という意味で、機能不全家庭における子供に課された役割の名称の一つでもある。これについて、大人になってから縁を切るまで・また縁を切ってからの私と私以外の家族の関わりを出来るだけ丁寧に描写しつつ、では幼少期には何をされていて今現在の私が何ならあれはおかしかったとはっきりと断言できるのかを書き起こしてみようと思う。
これは、私が将来大切な人と家庭を持ったときに気をつけなければいけないこととしての備忘録でもある。


実家を出たのは18の時、無事大学を卒業し高卒の両親の望み通り、名門大学の調べればすぐにわかる「日本一厳しい女子寮」へと入寮する形であった。言わずもがな私の希望ではない。泣こうが喚こうが関係なく、荷物すらも自分で纏めることもできぬまま「祖母の監視つき」で遠い土地の知らない場所へ文字通りぶち込まれた。女子寮自体も刑務所の方がまだ自由であろうというような時代錯誤のイカれトンチキぶりであったが、その話はまたいずれ書こう。
朝から晩までをきっちり管理されたうえに集団生活で互いが監視し合うというような体勢の女子寮ではあったものの、それでも実家を離れたことにより少しずつ目が覚めるようであった。
普通に友達も出来、友達とルームシェアを始めるという名目で寮を出ることにも成功した。
実家がいかに理不尽であるかはなんとなくわかっていたので必要最低限連絡も取らず、高校の時と同じノリで両親が成績表を監視し品評をつけてくるのも物理的に距離の遠いことの利点としてスルーすることが出来るようになった。
寮を出てから私は生活の為にアルバイトを始めた。居酒屋で200席もあるホールにお客さんが常にパンパンで走り回らなければならないきついバイトだったが、仲間もできて大学生特有の「職場で求められることが嬉しい」という思想にも浸り変に責任感を持って奔走していた。それでも生活は苦しかった。
大学1年から2年になる春休み、母親から一通のメールが届いた。内容は「父が経済的DVをしている。母も6個下の妹もろくに食事や生活の身の周りのものも手に入れられず、精神的に苦しい」というものだった。
私は過去に母が喜んで私を罵倒していたこともいたぶってきたことも記憶には充分あったはずなのに、何故か「頼られて嬉しい」と感じてしまった。遠くで暮らす私を「一人の大人」としてみてくれたから相談してくれたんだ、これには誠意を持って頼れる存在として多少見栄を張ってでも応えたい、と思った。
家庭で常に非人として扱われていた私は対等に扱ってもらえることに飢えていたのだろう。
そこで「今月は春休み期間だからバイトをがんばって、10万も稼げたから一部送るよ。妹といいご飯でも食べてきなよ」とメールを送った。
程なくして電話が鳴った。お礼の電話かと出ると耳が潰れる程の父の罵声が響き渡った。内容は「お前を勉強させるために大学へ入れてやったのにバイトばっかりして遊んでおかしい、という難癖であった。バイトをしないと生活が出来ない、春休みで時間があるとこちらが反論しても「誰のおかげで大学行けてると思ってる」と吠えるように怒鳴り続ける。電話を何度切ってもしつこく鳴り続けた。私は、自分が良かれと思ってしたことでがこんなにも非難を浴びていることに理解が及ばず、部屋の壁にスマホを投げつけて電池パックごとスマホから引き抜いてうずくまった。


それが父との最後の会話となった。これまでもこれからも死ぬまで更新されることがないからだ。
その後、「私が遊んでる」という理由により無理矢理入れられたはずの大学の学費支払いが滞った。このままだと退学することになると学生課で言われたときはそれも仕方ないかもしれないと思った。それでも私はまだ外の世界をあまりにも知らず、大学を辞めたら何をしていいのか大学を辞めたらさらに人間以下になってしまうのではないかという重圧に苛まれていた。
何しろ、大学に入るまで殆どのことを両親に監視されては勉強していい大学に入っていい就職先に着いて結婚することを叩き込まれてきたからだ。それ以外のルートが少しでも頭をかすめれば先回りしてコテンパンに潰され、そんな夢想を抱いた自分がいかに恥ずかしいかと頭に叩き込まれて生きてきたのだ。中学の頃お年玉でこっそりギターを買ったのが見つかったときも、絵や文章を書いていたのが見つかったときも、漢検一級を取ってみたいと言った時でさえ「無駄で役に立たないことばかり考えて現実から逃げてる、特別になれる人間は決まってるのにお前は夢を見て自分の人生を潰す」と何回も大袈裟に上げ連ねられ馬鹿にされた。恥ずかしい、恥ずかしいと泣かれた。美大や専門学校に行く人は将来のことを何も考えていない馬鹿だと教えられてきた。それでも受験時にせめて自分で両親の文句のないレベルの大学を選んで進みたいと望んで提案したこともあった。受験費入学費は自分で工面するから一浪してもっとお金のかからなくて更に頭のいい大学を目指したいという希望すらも当たり前の様に却下された結果が無理矢理入れられた大学で生活費はおろかついに払われなくなった学費であった。
今になって思うのは、彼らにとって勉強は「私に自分で自分の人生を切り拓かせない為の道具」だったということだ。
気がつけば両親からの手回しで奨学金の申請が行われていた。私は、見方によれば両親のエゴでぶち込まれた大学で他に出来ることがないという理由で大借金を背負うことになった次第である。
苦学生なんて沢山いるが、その苦労を買えるのは自分が選んだ選択肢だからだ。
幸い大学の授業には面白いものもあったりいい先生に出逢えたり、京都という土地を満喫出来たという点でも行ってよかったと思えることはあった。
だが残念なことに、未だその大学を無理して卒業したことが私のキャリアに優位性を発揮したことは一度たりともない。


次に最後の会話をした人物は母である。
その事件からしばらくの間、両親とは一切の連絡をとっていなかったのだが大学4年になる私の誕生日に母が私を訪ねてきた。というのも、ある日私の部屋に一通の封筒が届いたのだ。そこには近況と私に会いたいと思っている、誕生日の日の朝に京都へ行くから会って欲しいと書いてあった。
散々悩んだが、私自身両親と不仲である状態の拠り所のなさを周りと比べてコンプレックスに感じていたことやわざわざ遠くから来る人を放って置けないという理由から母を迎え入れることにした。母とは観光をしつつ他愛のない会話を楽しみ、帰り際には泣きながら「悪いと思ってた」と抱きしめられた。私もこの時ばかりは単純に感動したものである。距離感や立場の違いで、親子というのは分かり合えるのだと思った。そしてまた「自分はやっと対等に扱ってもらえるようになったのだ」という両親にしてみればチョロすぎる勘違いをするに至った。
それからしばらくの間、母はちょくちょく京都へ来るようになり幾度となく「いい親子ごっこ」が展開された。
それが終わったのは大学を卒業してしばらくした頃だ。私は再び京都へきた母に就職することをせがまれていた。その頃私は絵を描くことを通して初めて生きることの喜びを感じ取れたり、非正規だが在学時から掛け持ちで働いていた仕事も安定しており就職に対する熱は全くなかった。金銭的にも生活的にも自立していて特段迷惑をかけているわけでもなく、両親からは支配されていた歴史があるので自分の将来に口を出されるのはもうほとほと勘弁だったのだ。今思えば在学時からクリエイティブ系の就職を視野に入れておくのが最適解だったかもしれないが私は当時営業か事務以外の仕事があることすらも知らなかったし、会社に入って働くことに人生のうわっつらを決められてしまうような、自分の人生がなくなるようなマイナスのイメージを抱いていた。


母の説得がましい口調に過去の支配の片鱗を見た私は「聞きたいと思ってたけど黙ってたことなんだけど…」と切り出した。母自身が私にはたらいた虐待についてである。例えば◯◯さん(近所の主婦)と母がどっちが若く見えると思う?というなにげない質問に「◯◯さん」と答えてみたら両親揃って鬼のように怒り出して「あんたはうちの子じゃないから車から降りて」と本気で喚かれたことや夕方部屋で勉強をしておりご飯どきにリビングの扉を開け、食事をしている様子もなかったからそのまま部屋に戻ったときに「今つまんねーな、バカじゃないのて言っただろ。妹もはっきりと聞いたと言っている、と髪の毛を引っ付かんで壁に身体を叩きつけられながら詰られ、何度も「言ってないけど勘違いさせてごめんなさい」と手をついて謝ったが許してもらえず「顔も見たくない」と言われたこと。ちなみに夕食時にわざわざ声をかけてもらえないことも多かった。部屋にいるのに今食べているという時間を見計らって行かないと先に母と妹は夕食を済ませており残り物をレンジで温めて食べないといけなかった。忽然と一人で食べることが出来れば楽だったのに、虐められても孤立するよりはマシだと思いがちだった。他には11歳のとき体調がおかしく何度も母に訴えたが取り合ってもらえず、結果部屋で盛大にゲロを吐いてそれを母に伝えたが「今妹の寝かしつけで忙しい」と言われて涙と臭いによる嘔吐でぐちゃぐちゃになりながら自分の嘔吐物を片付けたことも印象深かった。家から7キロも離れた冬の暗い道に自分だけお金も通信手段も何もなく降ろされ、怖くて走って帰ったときに「自力で帰ったにしては早すぎるからお金を隠し持っていたんだろう」と妙な怒り方をされたこと。
数え切れない程ある理不尽なエピソードの中で、明らかにおかしいと思うそれらを母にどう思っているのか、謝って欲しいと話したところ、母の表情は最近では見たことがなかった形相に変わり「お前は親になったことがないからわからない。どれだけ子供を育てることが大変なことか。わからないことでそうやって裁判のように親を糾弾して謝罪させようとして楽しいか。お前が自分が正しいと証明したいだけ。父親にそっくりだ。親だって間違えることはある。そんな風になんでも自分が一番正しいと思って生きていって孤独に死ね。お前はわざわざ過去の嫌なことにとらわれていつまでも掘り返していて不幸だ。」と言った。
最後の台詞については到底的を射ていない論ではないが、他人が人のトラウマに口を挟む時点でエゴであるにも関わらず加害者が被害者に言うなんてことは言語道断の次第である。
彼らは何かにつけて「育ててやった恩」というカードを水戸黄門の印籠の様に切りたがるが、そのカードは使うたびに摩耗され、今となっては擦り切れた屑しかないということにこの後に及んで気付かない、いや気づく気がないのだ。
私は「過去のことは過去のことで、それはもう変えられないから今後あなたと付き合って行くためには今の自分に対して誠意を見せて欲しい。これは過去の関係の話ではなく、過去を清算することでの現在進行形の未来の話です、と主張をした。しかし、彼女が私に謝ることはおろか、罪を認めることはなかった。再開時に言った「悪いと思っていた」は学費を振り込まなくなったことについてであり、それについても母は「父にうっかりメールを見られちゃって〜」と弁解してはいたが、一度も父の主張を悪いとは言っていなかった。言うまでもない、母自身が父にそのメールを見せていたのである。その後わかったことだが、母が頻繁に京都へ足を運ぶ様になったのも粘着質な父による差し金、もとい潜入捜査だったというところであった。私そのものがエンターテイメントであり、両親は常に私に関する情報を共有し合ってその醜いスパイごっこを日常のゴシップとして楽しんでいたのだ。
彼女は最後に、「あんたに謝ったら親の威厳が失われる。あんたは親にとって何をしてもいい人間なんだから謝る理由がない」と宣って去っていった。少しばかりの親子ごっこで抱いた信頼は「私は騙されていたんだ」という気づきと共に崩れ去った。


それから半年も経たずして、母親から再びEメールが届いた。人に対して言ってはいけない最低な言葉を放ったことも都合よく忘れてしまったのかケロッとして「またいついつに遊びにいきます」という文章と近況、もう崩れている理想の母親像に陶酔していると思われる思いやりめいた文。吐き気がした。こいつは、いつだって人を無碍に出来ない私の好意や劣等感を利用して馬鹿にしてきた女だ。あのとき京都のカフェでこれが最後のチャンスだと何度も言ったのに認めなかったくせに、よくもまあまた都合もよろしく親子ごっこのふりをした現状調査兼洗脳を試みようとしてきたもんだな、と。
生まれてからずっと舐められているのだ。私が偉い人になったってお金持ちになったってきっとこの人たちには舐められ続けることには変わりないのだ。
そう思うと心の中のなにかがポキっと折れた。無視してもよかったがやはり無駄に京都に来させるのは悪いと思ったのでせめてもの優しさでこの前のことがあった後でもう付き合うことはできないこと、過去に因縁のない友人だったとしても「私には何してもいい」なんて平気で言ってしまう人と関わることは私の人生において必要ないこと、もし来ようが探そうが私はその頃には京都にいないことを伝えた。
母は再び一転し、地獄の様な恨みの文章を送りつけてきた。もう、それは誰のことを言ってるのだかわからないレベルの人格否定の嵐だった。「お前に手を差し述べてやってるのに人の優しさを受け入れられないなんて精神的におかしい状態なのだろう。お前は今の人間関係に満足しているからわざわざ自分に酷いことをするかもしれない人とは関われないと書いていたが幸せな人間はわざわざそんなことは言わない、お前は職場も交友関係もうまくいっておらず不幸なのだろう。お前の様なやつはいつか人を殺して犯罪者になる。それまでに私がなんとかしないといけない」などなどの決めつけにも程がある狂文であった。私は一度は「それは誰の話をしているの?貴方が話しているのは私の他者から抱かれる人物像と大きく異なります」と返したが埒があかず私が傷つくだけなので返すのをやめて着信拒否をして酒を飲んで寝た。ショックというよりは怒りとせいせいした気分だった。
謝ってもらうことではなく、認めてもらうことを諦めることで過去を清算出来た気がした。


因みに、私の名誉の為に言いたいがその頃の私は上京して絵を沢山描くことや色んな人と関わることを目標とし貯金を増やしたり時間があれば描くことに費やし、当時してた仕事も本当に毎日楽しく平穏な日々を実感していた頃だった。その頃に出来た老若男女問わない友人とは未だにたまに連絡も取り合っている。やっと自分で一から見つけた幸福すらも簡単に否定されること、してもいいと思っている人間性が許せなかった。今も許せない。私の輝かしい日々は紛れもない宝物で、誰かに否定されたからと言って霞んでしまうものでは決してないが、人の宝物にわざわざ傷をつけようという行為を平気で出来る人間には迷わず軽蔑の烙印を押させてもらう。私にとっての軽蔑とは、その人間が畜生道に堕ちたことを意味する。人間ではなくなったということだ。
それにしてもそこまでの危険人物だと思う相手とわざわざ関わりたいと思うなんてどういう心理状態なのだろうか。どうして彼らの中には「嫌なら関わらない」が存在しないのだろう。大した理由もなく「人殺しになる」なんて決めつけを行なってしまうのは、やはり自分達自身がいつか報復されてもおかしくない関わり方をしてきたという自覚が潜在意識の片隅にでもあるからだろうか。
母のパートはここで終わりである。これが、私の中の短かった母親史だ。ここに今後いい言葉が書き加えられることはない。


親だって間違えることはある?ふざけるな、お前のは瞬間的な間違いではなく永続的な悪意そのものではないか。

 

 


さて、私には6つ下妹がおり私は18で家を出てからというもの妹を「庇護対象」として見てきた。それには父のくだりの時のように母や妹自身が「自分が弱い存在である」と主張していたからという理由がある。私は母が父のスパイだということがわかった後も、妹がメールで言う「自分は姉が家を出ていった後に新たな生贄として家族に軟禁され勉強を強いられている」という話を鵜呑みにしていた。
子供は親を選べない。妹がどんなに幼少期両親と一緒に私を馬鹿にしていたとしても、同じ立場に置かれてしまっている妹の力になることが過去の自分を救えるような心持ちになっていた。
まあここまでの展開を見ればすぐにわかるのだ、私はこんなにも騙されてきたのにあまりにも弱味が丸見えで、それを埋めようとすればするほど家族に漬け込まれるのだ。