部屋が半端なく散らかっていると動かなくなる
大抵「何かがおかしいとき」というのは行動が単略化されすぎている。
最近の私といえば展示を言い訳に洗濯物を溜め洗い物を溜め、部屋にはあと1cmだけ中身が残っている500mlペットボトルのコカコーラゼロが散らばっている有り様だ。(私はこれを『コーラの死骸』と呼ぶ)
部屋が散らかっていると自分の領土が段々と狭められていき、しまいには元々狭い部屋のベッドの一部分のみが私の自由の効く空間となってくる。こうなるともう何もしない。
よく、「買い物に行く服がない」というあるある的な表現を耳にすることがあるが、こちらとしては「片付けをする余白がない」となってくるわけである。
わけである…と物々しく言ってしまったがいまいち伝わらない例えだったかもしれない。
言うなれば「どこから手をつけたらいいのか分からない状態」というのが人の不幸の元凶のように思えてくる。
朝目が覚めたとき、わりかしハッピーな気分で家に帰ってきたはずのとき、自分の中にある余白を感じ取ることが出来ないがために「何をすればいいんだっけ」が「私って何をしてたら楽しいんだっけ」にすり替わって途端に電池の切れた機械人形のように動かなくなる。
実験で鬱状態のマウスを作るためにはマウスをギチギチの筒みたいなところに入れて身動きを取れなくすることで『身動きがとれないから何をしても無駄』ということを学習させる、というのがあったが私の部屋の現状というのはまさに自分でこの筒を作って自ら筒に身体を滑り込ませているようなものである。
私は今中野で絵の展示を行っており、実質無職状態が続いてはいるもののお金が尽きているわけでもなく、優しくて面倒みのいい恋人もいる。
展示はすごい。もう、一生分くらいと言っていいほど人に褒められる。私が描いた絵たちがちゃんと人に伝わっていて、私が言って欲しかった言葉が絵を通して得られる。
緊張する場面や自分なんてと思う場面もあるが、一過性の心身の負担よりも得られるものは大きい。
私の中の、憎しみや人にいいように言われてどうにも腹が立って毎晩のように思い出すあれやこれが、まっすぐに褒められることや作品を買ってもらえること等で浄化されていくのだ。
つまり、私は結構ハッピー状態で、現状目の前にあまり嫌なことはないはずなのに、家に帰ると目の前が真っ暗になる。
なんと言えばいいのだろう、一人で歩いていたり一人でカフェで休日の時間をぼーっとすごすことは心地いいが、病院の待合室で呼ばれるのを待っているときは常に落ち着かずソワソワしてしまう。
部屋に帰ってくると「動かない」為か気持ちがずっと待ち合い室でソワソワと何かを待っているような状態になる。
圧倒的に部屋に問題がある。
人に褒められウキウキで帰ってきて「今日は珈琲でも飲みながら映画を観ようかしら♪ピノも買っちゃおう!お香も焚くぞ!」と「一人で楽しいOLっぽさを自らに演出してみたところで、部屋に帰ると映画の音が耳に入り続けるということも億劫で、結果として何もせず動かなくなる。
掃除をしろという話だし、もちろんこれを書き終わったら掃除をしようとは思っているのだがこの鬱屈とした感情というのは、本当に、「ハッピーな持ち物を持っている人」「欲しかったものを手に入れた人」にはにつかわしくないのだ。
家に帰ると自分の空っぽさをまじまじと感じ、まるで中学生の頃のように「こんな私で周りの人に見捨てられないだろうか」という不安の種が積み上がっていく。
最近あまり絵を描いていなかったのも要因の一部だろう。
この回のブログには答えはない。
幸せなはずなのに人に見捨てられることばかり考えて一人で息苦しくなっている自分のために本当は何をしてあげるのが正解なのか、ただ目を背けてフワフワと浮遊している訳ではなく地に足をつけて目的地を見据えた状態で安らかでいられるのかを問いたい。
あまりにも酷いのだ、アルコールが抜けていく若干の二日酔い状態のときなんて、離脱症状なのかどうあれば自分が安心していられるのかを考えることすらも怖い。眠りという手段で意識を失ってしまった方が早い。
人に愛されたことがないから、酷いことを言う人がいたり誤解されやすいことに怒りを感じるから…とかではなく、その条件が取り下げられたところで待っているのは他ならぬ「自分を大事にしてあげられない自分」なのだ。
今までの私は怒りや劣等感をバネにもがいて動いていたが、怒りや劣等感に自分を縛りつけることによって自分自身に目を向けることから逃げてきたのかもしれない、とこの頃思うのだ。
悪の組織のボスが最後にいうセリフみたいな思想だが、気づけるのはちょっと格好がいい。
いや、しかしそこを反省してしまうのはまだ早いようにも感じる。怒りや劣等感はあってもいいだろう。自分の中の怒りという感情の権利を律してはいけない