④鏡を覗き込むことが癖になったことと歪んだ恋愛観を振り翳した日々について

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ここからは自分の内側の相当に愚かである部分に触れなくてはいけないので書くことにおいてもそれを発表するにあたっても心理的障壁が覆い被さるようであったが、ここまで書いたのだからきちんと纏めて形に残さないと自分が浮かばれない。母が幼少期妹を可愛がる反面私を無碍に扱った理由として私を黙らせるための表面的な決まり文句の一つは「お前は長女だからその分両親や祖父母を独占してきた」という私にはどうしようもないことと「お前は妹よりも顔だけはいいから将来得をするけど妹は顔の作りが悪いから私たちが可愛いがってあげなきゃいけない」という妙にこちらの自尊心をくすぐるものだった。

中学生くらいからだろうか。現実で傷つくことがあればあるほど鏡を覗き込んで「私はいつか家族に愛されなかった分を見た目だけで補えるんだ」と言い聞かせるように唱えていた。そこに固執することで自分がどう足掻こうが誰かの特別になることの出来ないという事実から目を背けることが出来た。また、粘着質であからさまに支配的、融通の効かない父を反面教師にしなくてはいけないと思う反面で小学校高学年辺りから顕著に母を真似る言動が増えていった。母は確かに若く見え、今思うと特別美人ではなかったのだがいいイメージを持たれやすい顔立ちをしていたように思う。父は母をいつも可愛い可愛いと褒めそやし、母の父に対する理不尽で試すような口調や出先で普通そんなことをやっている人がいたら面倒くさくて置いていくだろうというくらいのあからさまに察してほしい不機嫌な態度も父は主従関係のように受け入れていた。母は父に対して察してほしいときに「デリカシーがない」や「疲れてるのに放っておいてくれない」などの非難を言いたい放題であった。しかし疲れた態度で一人だけ立ち止まってるからといって放置をすればそれもそれで「私のこと考えてない」と文句を言うような女だった。
思春期頃から母が私と長話をしてくれるときは父に対する大仰な悪口が大半であったが、それ以外で母の話し相手は殆ど妹だったので「聞き上手」として頼りにされることが嬉しかった。


いつの間にかそういう態度の母が家庭内で一番に認められていて、それを模範とすることで私も母が父から受けるのと同質のものこそが至高のような錯覚をするに至った。「見た目だけで」「何をしても」好きでいてくれる異性が出来たらそれこそが私の心の足りない部分を埋めるのだろう、母がいうに妹には手に入れることが出来ないそれが欲しい、と心の奥深くで望んだ。


そうして人を試すようなことを言って理不尽な自分を父が母を扱うように理不尽であるからこそ好意を浮き彫りにして欲しいと過剰な要求を周囲に望んだ。自分の見た目がいいという風に相手を褒めさせようと、あえて顔を気にしている等言ってあなたは可愛いという言葉を目の前の相手から引き出そうとすることが麻薬のように気持ちよくて癖になった。しかし、そんな歪な考え方は周りから疎まれやすくかえって願った評価と真逆のことを執拗に言われることになって傷つくことも多かった。


私が本当に美麗な容姿を持っていたかもしくは少しでも性的な魅力があったならば、比較的簡単に欲しかった言葉は手に入っただろう。だが、私の顔は残念ながら客観的に見て整っている方では無かったうえの私の身長は143cmまでしか伸びず、それだけで異形であった。その一方でどういうわけか男の人に性的な存在として見られることに異常に敏感だった為、低すぎる身長は少女のままでいられるようで有難いようにも感じた。あえてガサツな言動をしたりして性的に見られない工夫を凝らしていたこともあったのに、その反面自分を可愛いとは思ってほしくて、稀に可愛いと言ってくれた人には理不尽な対応をしてあえて困らせ、また可愛いと言われないだけで存在を全否定された様な気持ちになり落ち込んでいた。
もらえなかったものの代わりに手に入ると信じていたもの、かえってそれに関する渇望が私の抱いた幻想と逆転した現実を与える。私は母みたいな女になろうとしてなれないことに打ちのめされた。


今思えば自分の理不尽を通すことで感じる愛情に価値なんかあるはずがない。子供に「◯◯さんと私、どっちが若く見える?」なんてちんぷんかんぷんな質問をしたときに意図せぬ回答をした子供を敵と判断して一緒にやっつけてくれる「私の一番の味方」なんかより「おいおい、なに馬鹿な質問をしているの」と嗜めてくれる男の人の方が絶対に誠実で優しい。
だが、そんなことにも到底気づけぬままその渇望に思春期に壊された性的興味が合流する形となって、私はますます歪な女へと成長していくこととなった。


男性恐怖症とまでは言わない。いささかコミュニケーションに難はあったが、それはこれまでのコミュニケーション総数の不足によるものであり喋れるには喋れた。
大学生になってから当時好きだった男の人と鴨川で並んで桜を見たことがあった。その時さりげなく距離が詰められ、「いい感じの空気」が演出されそうになった。好きなはずなのにそれだけでもゾワっとしてダメだった。鳥肌が立つほど気持ちが悪くて嘘をついて逃げた。
この章で、私はけして被害者なんかではない。被害者ぶった意識で平気で加害行動を繰り返し我欲を満たそうとするモンスターだ。
もう一人、大学入学当初に私を何度もデートや祭りに誘ってくれた男の人がいた。私は格好の餌食とばかりに「どう利用してやろう」「どう理不尽な態度をとって試して振り回してやろう」ばかり考えていた。当時はその意識が酷い思考回路だという自覚はなく、相手に服従させることが自分に対する好意の揺るがなさを示す儀式の様に思っていた。その人は夜中に呼び出したりデートだと思わせて友達を連れていったりしていたらいつの間にか私に連絡をして来なくなった。私は「もっと所謂メンヘラっぽいことをしてみたかったのに、弱くて理不尽であるほど魅力的だと思って欲しかったのに私には相手を振り回すに足る価値がないのか…」とあまりにも自分勝手で歪んだ悲嘆にくれる。まったく相手のことなんか見ていないのだ。
自分に興味がない人や変に思い入れがない人と遊んだ方が気持ちが楽かもしれない、と思って友達の紹介でイケメンと会ってみたりBarで知り合った男の人の家に行ったりもした。「自分より上」と思うと服従させようという意識や気持ち悪さは働かずに済んだが今度は思春期に砕かれた性愛に関する思い込みが邪魔をした。性的なことに興味はあるのに必ず一度は断り、相手が断ったのに私と普通に関わってくれることに「私の見た目や内面等性的な部分じゃないところを重んじてくれている人なんだ…」と都合のいい幻想を抱き勝手に振り回されることを反吐が出るほど繰り返した。


性的に見られることが嫌なのか性的なことをしたいのか自分でもわからず、18で実家を出て周りも段々恋愛をしていく中でずっと「不完全な人間」として自分を見ざるを得なかった。

 


まともになったのは今の恋人と一緒になるようになってからくらいだろうか。恋人のことはここで書いても見当違いな惚気話になってしまって話の終わりが荒唐無稽になることが見越されるため、あえて書かない。普通の人と普通に出会って、自然にその人と向き合う努力が出来るようになったというくらいだろうか。それが出来る様になったのは長い時間をかけて誰かの中じゃなくて自分の中に自分を見出せるようになってきたことと、もう一度両親から虐待を受けていた頃に近い境遇に立たされた時期があって自分をどうしても変えたいと強く思ったからだが機会があれば別で書きたいと思う。
こういう文を今まで何度も書こうと思ってきたが、書けなかったのは着地点が見えないままただの愚痴になってしまうからだ。どうしても自分が女として不完全だという意識を持ったままであると日常で降りかかる様々な厄事や両親にされて来た事にも結びつけて「自分に悪いところがあったからだ」と何処かで罪悪感に負ける。ひどいときなんかは道によく佇んでいるボロ雑巾みたいなおじさんの前を通過する時にたまたま大きな声で意味不明な言葉を浴びせられたくらいのことで自分の容姿や歩き方や体型が気持ち悪いからではないかと一日中考え込んでいたくらいだ。
今の自分は作家活動や恋人、友人を通して自信がついたことによりそういう「あからさまにおかしい人」に「たまたま出会った」というただの出来事だと頭で理解出来るようになったからあからさまにおかしかった家族のことをこうして書けるようになった次第だ。
容姿への執着と劣等感についてはここではさらっとだけ書いてしまうが記号としての女性らしさをファッションから排除したことと髪を白髪に染め眉毛を剃り落とし両親の面影を顔から得る情報から割合的に減らしたこと、自分に顔だちがよく似た中国の人形を絵に描くことを通して乗り越えた。


さて、長くに渡り伝えるに至った幼少期から思春期への性的倒錯の話だが、この話のきっかけは妹の結婚である。上京して妹と会っていたとき、まだ信用していた妹にそれとなく母や父に性的観念をズタズタにされてきたことを話すと、彼女はケロッとした顔をして「私、同じようにネットサーフィンでエロサイトを見まくったことあったけど別に何も言われなかったよ」と言ったのだった。

 


彼らは、娘が性的な物事に触れるのが嫌だったんじゃない。私に、私だけにわかってて嫌がらせをしたかったのだ。
そして、そんな妹が私が大学2年になる春休み、件のバイトで頑張って10万稼いだから一部送ると申し出たことに「大学入ったのに遊んでいる」と烈火の如く怒鳴られたあの時と同じ大学2年になる春休み、妊娠報告をした。
両親は恐らくこのブログを今でも盗み読んでいるだろう。母はきっとこの文を読みながら「そんなもん、後で起こることなんか誰にも予想できないんだから妹ばっかずるいずるいって子供かよ。後出しジャンケンじゃん」と鼻で笑っているだろうが良識的な行為と自分勝手で極めて動物的だともいえる行為に自分たちの好き嫌いで勝手な判決を与えて一方を非人間扱い、一方をおめでたい、孫を産んでくれてありがとうなんておかしな話じゃないか。
この長い長い文章が「ずるい」の一言に要約されるのであればその「ずるい」を表現する為に様々な経験とボキャブラリーを活用できることが私が自分の人生を自分の足で歩いた証だ。


「姉のようになるな」と育てられいい大学の医学部に入れる為に2年も余計に猶予を与え、その結果が中途半端な大学に入って一年めで妊娠なんてあまりに失笑ものだ。動物や虫でも冬眠の時期を考えて子作りをする分利口なんじゃないか。
今どき避妊さえしていればほとんどの確率で妊娠なんてしないのに、大学に入ってどれだけ性行為に明け暮れていたんだろう。
大した英才教育だ。節操のない娘にならない為に、私でなく妹の方に過剰な性教育を押し付けた方がよかったんじゃないか。


だが、自分が妹より賢明に生きてきたと客観的に証明出来れば出来るほど、一度決められてしまった立ち位置は一生涯ひっくり返ることはなく自分が優秀であれば親はもっと優秀であることを求めて罵倒し妹はその反対に本当に何をしても愛しい存在だったということが浮き彫りになるようで辛く感じた。
妹はディズニーシーで私がご馳走したビールを味わいながら「私がお姉ちゃんみたいに親に怒られなかったのはお姉ちゃんが怒られてる姿を見て育って要領がいいからだよ。うまくかわせる」と満足そうに言っていたが、果たして10m級の津波が突然目の前に現れるような状況でうまく逃げられる人なんているのだろうか。妹は常に母とべったりくっついていて、母はいつも妹を庇った。父は見えるところであからさまに私と妹で差別はしていなかったから妹に逆上することもしばしばあったが思い出せばいつも母が出てきてかばっていた。
自分は最強の盾を持っておきながら平気で人の努力不足にしていたのだ。反吐が出る。

 


そんなことを考えながら文章を書いていたらつい数日前、祖母から妹の赤子の写真が送られてきた。非情かもしれないがまるで興味がわかなかった。妹がもし私を両親に売った後もこまめに連絡をして来ていたらまた良心に負けて祝福をしていたかもしれないが、そういう情の部分を家族に利用されやすい私としては祝福したくもないような環境でよかったように感じる。
どこまでも図太く生きる彼女がこれからも図太く私にはくれぐれも関わらないで欲しいということだけを切に願う。
祖母の話だと両親は可愛い妹の出産を祝いにわざわざ飛行機に乗って遠く離れた旦那の実家で暮らす妹に会いに行ったという。あの家族が妹の相手方の家族に姉の存在を話すとき、私は一体どのように都合のいい形に変容させられていることやら。


それから祖母は「貴方も大事にしてくれる人を見つけて結婚して」「幸せなところが見てみたい」とLINEで立て続けに送ってきた。
あぁ、祖母から見たら私は不幸なんだなと思った。確かに、妹は性に関する葛藤も人を信じる葛藤も抱えずに生きられているんだろう。両親から大切に扱われてきたから自分が家庭を築くことに何の呵責もなければパートナーに両親を会わせることが出来ない自分で申し訳ないことや互いの両親が揃った晴れ晴れとした幸せな結婚式は出来ないだろうことに悩む必要性さえも生まれなかっただろう。彼らの愛とは素晴らしいもんだ、なんでも受け入れられる。愛があればなんでも手に入る。ではその愛情の外におかれた私は、何も得られないのか。


東京都内、箱のような狭い部屋で一人考え事をしているとどうしても自分の人生がうまくいっていないような焦りと劣等感に苛まれる。私の抱えてきた葛藤を持たない、私が両親から奪われ続けて来たものを一切取り上げられないで育ったifルートの存在が妹だったとして、私は妹になりたいだろうか。
答えは「なりたくない」だ。私は自分のことが大好きで、自分を誇りに思っているからだ。


私のようなタイプの虐待は最近一部「毒親」として認知されるようにはなってきたものの、両親が健在で特別な貧困家庭であった訳でも、アル中や直接的な虐待があった訳でもない為本当に伝わりにくい。どんなにそこに悪意しか渦巻いてなかったにせよ「でも大学まで行かせてもらったんだから立派だよ」「愛情のない親なんていないんだよ」「不幸ぶるのは良くない」と一蹴されてしまう。どんなに私が髪を引っ掴まれて壁に身体を打ち付けられてるのを目の前で見ていたことがあってもだ。「両親とは連絡を取っているの」という質問にもう会う気はないと言うと、自分だってもう何年も嫌で関わっていないのに「両親は貴方の育て方を間違えたんだね」なんて言ってしまうような祖母とたまに連絡を取ることができる以外は事実上天涯孤独であっても、だ。


私の半生は常に「伝わらないもどかしさ」と共にあった。両親へ伝わらないもどかしさ。友人に伝わらないもどかしさ。世間へ伝わらないもどかしさ。好きな人に伝わらないもどかしさ。
だからこそ伝える為の力が人一倍身についたのだと信じたい。
この文章は家族を糾弾したい気持ち、誰かに実感してみてほしいという思いを込めて書いてみたが、一番はあった出来事を言葉できちんと伝えられる自分という語り手への尊重の意思を紡ぐ行為である。絵も同じだ、現実での報われなさをだからこそ平面の世界の中でのみ何か違った世界を覗けるような、いい映画を見ているときに精神が自らの実生活のことでなく映画の中の人の動きに沿って動くように異なる世界を見ることで自分から離れられるその悦びを創りたくて描いているが、それは結局自分という描き手が抱ける世界観への熱望で形にすることで自分が一番自分自身のファンであることを指し示す為に頭で描いたアイデアの奴隷として腕を動かす。


私は、伝えたい気持ちを形にすれば形にするほどそんな自分自信を誇りにすることが出来る。家族の誰も取らなかった救いの方法を私のみが知っている。
だから、私は自由だ。私は自分が好きだ。作品は私を裏切らない。どれだけ貧乏でも、この先孤独でも私は自分の生きてきた軌跡を他者に反映することでなく形として置いていくことができる。自分のかつて放ったエネルギーで自分や自分に近い誰かを励ますことができる。
私はこの能力もとい好きなことを邪魔されてもがむしゃらに続けることが出来る力を何を天秤にかけても誰にも譲りたくない。かけがえのない私だけの宝物だ。
だから、出来るならばしないで済む苦労はせずに生きたかったが今ようやくその苦労ごと自分を抱きしめてもいいように思える。家族のことは恐らく一生許さない。関わることもない。しかし、葛藤を形に出来るという悦びを持つ面では私が被った損失は「私という人間がエネルギーを変容する錬金術を使える」ことによってのみお得なのだ。
私は今の自分を幸福だと思う。また、自分の未来をより明るいものにする努力をたやさない。


長い話に付き合ってくれた方、本当にありがとうございます。
この話はこれで終わりです。