3時に起きたから

仕事で夜中に家に帰り酒を飲み爆睡し、昼に起きたが食事をとるとまた眠り夕方に起き、夜も21時に寝てしまったので夜中の3時についに目が覚め頭が冴え渡っているという悲しい現状である。

それでも起きている数時間の間に3000円の自転車をネットで発掘し、下見に行き明日取りに行く確約を結んだので良しとしよう。
知らない駅に降り立ち、帰りにサイゼリヤのハンバーグを一人で食べ、アルコールも飲まずまっすぐ家に帰り、家に帰りついた瞬間のバケツをひっくり返したような大雨も満足ポイントが高い。
私は外に出なくて良いときの大雨が大好きなのだ。
それに雨より早く家に到達した運の良さも褒められたものだ。

こういう日記を書くときは忙しくないときや日常に満足できていないときが多い。
今の私でいえば単純にQOLが低いことが言えるだろう。

個展も無事に終わり、通っていた仕事も昨日でひと段落がつき次は10日後に始まるグループ展と新しい大きな依頼に従事していきたい。時間もできたのでCGもゴリゴリ覚えていきたい。
なんなら来年の4月に大阪でやる個展に向けて新しいことをやったりどんどん作品も作っていきたい。

そういう未来の約束がしっかりあり、意気込みもあり、それに費やせる時間もある贅沢な状態であるものの少し前から私がやっていることといえば
物が溢れた部屋の中でただひたすらインスタやブログなどに転がっているエッセイ漫画を読み漁り、無料で漫画を読めるアプリを駆使してiPhoneiPadの2台使いで特別で大切なはずの有り余る時間を無料で漫画を見るためにCM動画を見る時間に費やしている事態である。

そのくせにせっかく入っているAmazon primeは放置し、今話題の台湾映画「呪詛」を観てみたいからとNetflixの再加入も考案中のダメなニートみたいな生活だ。とにかく漫画を読み漁るしかやっていない。

「縦」になれないのだ。
ときどき縦になれない時期というのがやってくる。起き上がって机についてもなんとなくしんどくてベッドに移動し「横」になる。
頭の中にひたすらできるだけどうでもいい情報を注入し続け、疲れたら眠りにつく。
現実逃避の権化みたいだ。

さて、そんな生活を送っているうえにもともととんでもなく狭い部屋に住んでいる。部屋は寝る場所以外物で溢れかえっている。

1週間ほど前、夜中に近所のドンキに訪れてみた際に500円でアロマディフューザーを購入した。
私は水道橋にあるラクーアというゴージャスなスパが大好きで、あそこは常にアロマなのかなんなのか誰も嫌いな人はいないだろうというステキな匂いで充満している。

私は「あのラクーアの匂いが500円で常におうちで体験できる?!それって、なんかめっちゃ『憧れの女子生活』じゃん。ヨガとかやっちゃうかも?!」なんてウキウキワクワクしながら購入した。
使ったのは当日だけだった。
威力が弱く、真横にいないと匂いを感じられないのと思った以上に香りがチャチかったからだ。

ゴージャスなスパの匂いを甘くみてはいけない。

こうして私の憧れの女子生活妄想は一瞬で廃れ、ゴミが一つ増えた。


長くなるのもなんだが、今書かないと忘れてしまいそうなので続きを書いていこう。

私のお正月にだけ会っていた父方の祖父は、物心つく頃には常に孤独であった。
緑の砂壁の部屋でいつも一人テレビを観ていた。あまり言葉数も多くなく、元々出不精であったものの途中で足を悪くしさらに出かけなくなってしまったらしい。周りとの付き合いもほとんどなかったんじゃないだろうか。

もう亡くなってしまったが、最期の方は施設の小さな部屋でベッドに横たわりそこからテレビを眺めていた。

私は若かった頃の祖父を知らないしどんな人生だったのかをそこまではっきりとは知らない。少なくとも息子が二人もいてこうして孫の私がいるということは昔は一人でテレビを眺めるだけの生活ではなかったはずだ。

しかし私は、大人になってから自分が「縦になれない」状態になる度に祖父のあの姿を思い出してしまい哀しくなる。
あんな風に何十年もただ命の最期を迎えるのを待つようなのは私には耐えられない、と高校生の時に思ったはずなのだが
私もテレビがスマホに変わっただけで同じようなことをしているような気がする。

なんなら、祖父は持ち家も持っていたし結婚もしていたんだから私の方が若くしてこんなじゃ人生の濃度があまりにも薄すぎる。

そんな人生の濃度が薄いことが悩みで部屋の片付けも満足に出来ないで寝転がったままの私が唯一できることは、少々ざっくりであるがやはり「作る」ことなのだと思う。

もしあの無口で孤独な祖父が絵を描いていたり物作りをしている人だったら、私が祖父に持った「ただ死を待っている」という印象は違ったものになっていたのではないかと思う。


死を待ちたくないのなら、やはり作るのをやめないしかないのだ。

私の何十年後かに訪れる死がどんな状態かは、正直想像すらしたくないがもし何もない本当に限界孤独老人になってしまっていたとしても最後まで自分が自分である意味を見出したいf:id:pirinzaraza:20220713051124p:image

④鏡を覗き込むことが癖になったことと歪んだ恋愛観を振り翳した日々について

f:id:pirinzaraza:20210918181227p:image

ここからは自分の内側の相当に愚かである部分に触れなくてはいけないので書くことにおいてもそれを発表するにあたっても心理的障壁が覆い被さるようであったが、ここまで書いたのだからきちんと纏めて形に残さないと自分が浮かばれない。母が幼少期妹を可愛がる反面私を無碍に扱った理由として私を黙らせるための表面的な決まり文句の一つは「お前は長女だからその分両親や祖父母を独占してきた」という私にはどうしようもないことと「お前は妹よりも顔だけはいいから将来得をするけど妹は顔の作りが悪いから私たちが可愛いがってあげなきゃいけない」という妙にこちらの自尊心をくすぐるものだった。

中学生くらいからだろうか。現実で傷つくことがあればあるほど鏡を覗き込んで「私はいつか家族に愛されなかった分を見た目だけで補えるんだ」と言い聞かせるように唱えていた。そこに固執することで自分がどう足掻こうが誰かの特別になることの出来ないという事実から目を背けることが出来た。また、粘着質であからさまに支配的、融通の効かない父を反面教師にしなくてはいけないと思う反面で小学校高学年辺りから顕著に母を真似る言動が増えていった。母は確かに若く見え、今思うと特別美人ではなかったのだがいいイメージを持たれやすい顔立ちをしていたように思う。父は母をいつも可愛い可愛いと褒めそやし、母の父に対する理不尽で試すような口調や出先で普通そんなことをやっている人がいたら面倒くさくて置いていくだろうというくらいのあからさまに察してほしい不機嫌な態度も父は主従関係のように受け入れていた。母は父に対して察してほしいときに「デリカシーがない」や「疲れてるのに放っておいてくれない」などの非難を言いたい放題であった。しかし疲れた態度で一人だけ立ち止まってるからといって放置をすればそれもそれで「私のこと考えてない」と文句を言うような女だった。
思春期頃から母が私と長話をしてくれるときは父に対する大仰な悪口が大半であったが、それ以外で母の話し相手は殆ど妹だったので「聞き上手」として頼りにされることが嬉しかった。


いつの間にかそういう態度の母が家庭内で一番に認められていて、それを模範とすることで私も母が父から受けるのと同質のものこそが至高のような錯覚をするに至った。「見た目だけで」「何をしても」好きでいてくれる異性が出来たらそれこそが私の心の足りない部分を埋めるのだろう、母がいうに妹には手に入れることが出来ないそれが欲しい、と心の奥深くで望んだ。


そうして人を試すようなことを言って理不尽な自分を父が母を扱うように理不尽であるからこそ好意を浮き彫りにして欲しいと過剰な要求を周囲に望んだ。自分の見た目がいいという風に相手を褒めさせようと、あえて顔を気にしている等言ってあなたは可愛いという言葉を目の前の相手から引き出そうとすることが麻薬のように気持ちよくて癖になった。しかし、そんな歪な考え方は周りから疎まれやすくかえって願った評価と真逆のことを執拗に言われることになって傷つくことも多かった。


私が本当に美麗な容姿を持っていたかもしくは少しでも性的な魅力があったならば、比較的簡単に欲しかった言葉は手に入っただろう。だが、私の顔は残念ながら客観的に見て整っている方では無かったうえの私の身長は143cmまでしか伸びず、それだけで異形であった。その一方でどういうわけか男の人に性的な存在として見られることに異常に敏感だった為、低すぎる身長は少女のままでいられるようで有難いようにも感じた。あえてガサツな言動をしたりして性的に見られない工夫を凝らしていたこともあったのに、その反面自分を可愛いとは思ってほしくて、稀に可愛いと言ってくれた人には理不尽な対応をしてあえて困らせ、また可愛いと言われないだけで存在を全否定された様な気持ちになり落ち込んでいた。
もらえなかったものの代わりに手に入ると信じていたもの、かえってそれに関する渇望が私の抱いた幻想と逆転した現実を与える。私は母みたいな女になろうとしてなれないことに打ちのめされた。


今思えば自分の理不尽を通すことで感じる愛情に価値なんかあるはずがない。子供に「◯◯さんと私、どっちが若く見える?」なんてちんぷんかんぷんな質問をしたときに意図せぬ回答をした子供を敵と判断して一緒にやっつけてくれる「私の一番の味方」なんかより「おいおい、なに馬鹿な質問をしているの」と嗜めてくれる男の人の方が絶対に誠実で優しい。
だが、そんなことにも到底気づけぬままその渇望に思春期に壊された性的興味が合流する形となって、私はますます歪な女へと成長していくこととなった。


男性恐怖症とまでは言わない。いささかコミュニケーションに難はあったが、それはこれまでのコミュニケーション総数の不足によるものであり喋れるには喋れた。
大学生になってから当時好きだった男の人と鴨川で並んで桜を見たことがあった。その時さりげなく距離が詰められ、「いい感じの空気」が演出されそうになった。好きなはずなのにそれだけでもゾワっとしてダメだった。鳥肌が立つほど気持ちが悪くて嘘をついて逃げた。
この章で、私はけして被害者なんかではない。被害者ぶった意識で平気で加害行動を繰り返し我欲を満たそうとするモンスターだ。
もう一人、大学入学当初に私を何度もデートや祭りに誘ってくれた男の人がいた。私は格好の餌食とばかりに「どう利用してやろう」「どう理不尽な態度をとって試して振り回してやろう」ばかり考えていた。当時はその意識が酷い思考回路だという自覚はなく、相手に服従させることが自分に対する好意の揺るがなさを示す儀式の様に思っていた。その人は夜中に呼び出したりデートだと思わせて友達を連れていったりしていたらいつの間にか私に連絡をして来なくなった。私は「もっと所謂メンヘラっぽいことをしてみたかったのに、弱くて理不尽であるほど魅力的だと思って欲しかったのに私には相手を振り回すに足る価値がないのか…」とあまりにも自分勝手で歪んだ悲嘆にくれる。まったく相手のことなんか見ていないのだ。
自分に興味がない人や変に思い入れがない人と遊んだ方が気持ちが楽かもしれない、と思って友達の紹介でイケメンと会ってみたりBarで知り合った男の人の家に行ったりもした。「自分より上」と思うと服従させようという意識や気持ち悪さは働かずに済んだが今度は思春期に砕かれた性愛に関する思い込みが邪魔をした。性的なことに興味はあるのに必ず一度は断り、相手が断ったのに私と普通に関わってくれることに「私の見た目や内面等性的な部分じゃないところを重んじてくれている人なんだ…」と都合のいい幻想を抱き勝手に振り回されることを反吐が出るほど繰り返した。


性的に見られることが嫌なのか性的なことをしたいのか自分でもわからず、18で実家を出て周りも段々恋愛をしていく中でずっと「不完全な人間」として自分を見ざるを得なかった。

 


まともになったのは今の恋人と一緒になるようになってからくらいだろうか。恋人のことはここで書いても見当違いな惚気話になってしまって話の終わりが荒唐無稽になることが見越されるため、あえて書かない。普通の人と普通に出会って、自然にその人と向き合う努力が出来るようになったというくらいだろうか。それが出来る様になったのは長い時間をかけて誰かの中じゃなくて自分の中に自分を見出せるようになってきたことと、もう一度両親から虐待を受けていた頃に近い境遇に立たされた時期があって自分をどうしても変えたいと強く思ったからだが機会があれば別で書きたいと思う。
こういう文を今まで何度も書こうと思ってきたが、書けなかったのは着地点が見えないままただの愚痴になってしまうからだ。どうしても自分が女として不完全だという意識を持ったままであると日常で降りかかる様々な厄事や両親にされて来た事にも結びつけて「自分に悪いところがあったからだ」と何処かで罪悪感に負ける。ひどいときなんかは道によく佇んでいるボロ雑巾みたいなおじさんの前を通過する時にたまたま大きな声で意味不明な言葉を浴びせられたくらいのことで自分の容姿や歩き方や体型が気持ち悪いからではないかと一日中考え込んでいたくらいだ。
今の自分は作家活動や恋人、友人を通して自信がついたことによりそういう「あからさまにおかしい人」に「たまたま出会った」というただの出来事だと頭で理解出来るようになったからあからさまにおかしかった家族のことをこうして書けるようになった次第だ。
容姿への執着と劣等感についてはここではさらっとだけ書いてしまうが記号としての女性らしさをファッションから排除したことと髪を白髪に染め眉毛を剃り落とし両親の面影を顔から得る情報から割合的に減らしたこと、自分に顔だちがよく似た中国の人形を絵に描くことを通して乗り越えた。


さて、長くに渡り伝えるに至った幼少期から思春期への性的倒錯の話だが、この話のきっかけは妹の結婚である。上京して妹と会っていたとき、まだ信用していた妹にそれとなく母や父に性的観念をズタズタにされてきたことを話すと、彼女はケロッとした顔をして「私、同じようにネットサーフィンでエロサイトを見まくったことあったけど別に何も言われなかったよ」と言ったのだった。

 


彼らは、娘が性的な物事に触れるのが嫌だったんじゃない。私に、私だけにわかってて嫌がらせをしたかったのだ。
そして、そんな妹が私が大学2年になる春休み、件のバイトで頑張って10万稼いだから一部送ると申し出たことに「大学入ったのに遊んでいる」と烈火の如く怒鳴られたあの時と同じ大学2年になる春休み、妊娠報告をした。
両親は恐らくこのブログを今でも盗み読んでいるだろう。母はきっとこの文を読みながら「そんなもん、後で起こることなんか誰にも予想できないんだから妹ばっかずるいずるいって子供かよ。後出しジャンケンじゃん」と鼻で笑っているだろうが良識的な行為と自分勝手で極めて動物的だともいえる行為に自分たちの好き嫌いで勝手な判決を与えて一方を非人間扱い、一方をおめでたい、孫を産んでくれてありがとうなんておかしな話じゃないか。
この長い長い文章が「ずるい」の一言に要約されるのであればその「ずるい」を表現する為に様々な経験とボキャブラリーを活用できることが私が自分の人生を自分の足で歩いた証だ。


「姉のようになるな」と育てられいい大学の医学部に入れる為に2年も余計に猶予を与え、その結果が中途半端な大学に入って一年めで妊娠なんてあまりに失笑ものだ。動物や虫でも冬眠の時期を考えて子作りをする分利口なんじゃないか。
今どき避妊さえしていればほとんどの確率で妊娠なんてしないのに、大学に入ってどれだけ性行為に明け暮れていたんだろう。
大した英才教育だ。節操のない娘にならない為に、私でなく妹の方に過剰な性教育を押し付けた方がよかったんじゃないか。


だが、自分が妹より賢明に生きてきたと客観的に証明出来れば出来るほど、一度決められてしまった立ち位置は一生涯ひっくり返ることはなく自分が優秀であれば親はもっと優秀であることを求めて罵倒し妹はその反対に本当に何をしても愛しい存在だったということが浮き彫りになるようで辛く感じた。
妹はディズニーシーで私がご馳走したビールを味わいながら「私がお姉ちゃんみたいに親に怒られなかったのはお姉ちゃんが怒られてる姿を見て育って要領がいいからだよ。うまくかわせる」と満足そうに言っていたが、果たして10m級の津波が突然目の前に現れるような状況でうまく逃げられる人なんているのだろうか。妹は常に母とべったりくっついていて、母はいつも妹を庇った。父は見えるところであからさまに私と妹で差別はしていなかったから妹に逆上することもしばしばあったが思い出せばいつも母が出てきてかばっていた。
自分は最強の盾を持っておきながら平気で人の努力不足にしていたのだ。反吐が出る。

 


そんなことを考えながら文章を書いていたらつい数日前、祖母から妹の赤子の写真が送られてきた。非情かもしれないがまるで興味がわかなかった。妹がもし私を両親に売った後もこまめに連絡をして来ていたらまた良心に負けて祝福をしていたかもしれないが、そういう情の部分を家族に利用されやすい私としては祝福したくもないような環境でよかったように感じる。
どこまでも図太く生きる彼女がこれからも図太く私にはくれぐれも関わらないで欲しいということだけを切に願う。
祖母の話だと両親は可愛い妹の出産を祝いにわざわざ飛行機に乗って遠く離れた旦那の実家で暮らす妹に会いに行ったという。あの家族が妹の相手方の家族に姉の存在を話すとき、私は一体どのように都合のいい形に変容させられていることやら。


それから祖母は「貴方も大事にしてくれる人を見つけて結婚して」「幸せなところが見てみたい」とLINEで立て続けに送ってきた。
あぁ、祖母から見たら私は不幸なんだなと思った。確かに、妹は性に関する葛藤も人を信じる葛藤も抱えずに生きられているんだろう。両親から大切に扱われてきたから自分が家庭を築くことに何の呵責もなければパートナーに両親を会わせることが出来ない自分で申し訳ないことや互いの両親が揃った晴れ晴れとした幸せな結婚式は出来ないだろうことに悩む必要性さえも生まれなかっただろう。彼らの愛とは素晴らしいもんだ、なんでも受け入れられる。愛があればなんでも手に入る。ではその愛情の外におかれた私は、何も得られないのか。


東京都内、箱のような狭い部屋で一人考え事をしているとどうしても自分の人生がうまくいっていないような焦りと劣等感に苛まれる。私の抱えてきた葛藤を持たない、私が両親から奪われ続けて来たものを一切取り上げられないで育ったifルートの存在が妹だったとして、私は妹になりたいだろうか。
答えは「なりたくない」だ。私は自分のことが大好きで、自分を誇りに思っているからだ。


私のようなタイプの虐待は最近一部「毒親」として認知されるようにはなってきたものの、両親が健在で特別な貧困家庭であった訳でも、アル中や直接的な虐待があった訳でもない為本当に伝わりにくい。どんなにそこに悪意しか渦巻いてなかったにせよ「でも大学まで行かせてもらったんだから立派だよ」「愛情のない親なんていないんだよ」「不幸ぶるのは良くない」と一蹴されてしまう。どんなに私が髪を引っ掴まれて壁に身体を打ち付けられてるのを目の前で見ていたことがあってもだ。「両親とは連絡を取っているの」という質問にもう会う気はないと言うと、自分だってもう何年も嫌で関わっていないのに「両親は貴方の育て方を間違えたんだね」なんて言ってしまうような祖母とたまに連絡を取ることができる以外は事実上天涯孤独であっても、だ。


私の半生は常に「伝わらないもどかしさ」と共にあった。両親へ伝わらないもどかしさ。友人に伝わらないもどかしさ。世間へ伝わらないもどかしさ。好きな人に伝わらないもどかしさ。
だからこそ伝える為の力が人一倍身についたのだと信じたい。
この文章は家族を糾弾したい気持ち、誰かに実感してみてほしいという思いを込めて書いてみたが、一番はあった出来事を言葉できちんと伝えられる自分という語り手への尊重の意思を紡ぐ行為である。絵も同じだ、現実での報われなさをだからこそ平面の世界の中でのみ何か違った世界を覗けるような、いい映画を見ているときに精神が自らの実生活のことでなく映画の中の人の動きに沿って動くように異なる世界を見ることで自分から離れられるその悦びを創りたくて描いているが、それは結局自分という描き手が抱ける世界観への熱望で形にすることで自分が一番自分自身のファンであることを指し示す為に頭で描いたアイデアの奴隷として腕を動かす。


私は、伝えたい気持ちを形にすれば形にするほどそんな自分自信を誇りにすることが出来る。家族の誰も取らなかった救いの方法を私のみが知っている。
だから、私は自由だ。私は自分が好きだ。作品は私を裏切らない。どれだけ貧乏でも、この先孤独でも私は自分の生きてきた軌跡を他者に反映することでなく形として置いていくことができる。自分のかつて放ったエネルギーで自分や自分に近い誰かを励ますことができる。
私はこの能力もとい好きなことを邪魔されてもがむしゃらに続けることが出来る力を何を天秤にかけても誰にも譲りたくない。かけがえのない私だけの宝物だ。
だから、出来るならばしないで済む苦労はせずに生きたかったが今ようやくその苦労ごと自分を抱きしめてもいいように思える。家族のことは恐らく一生許さない。関わることもない。しかし、葛藤を形に出来るという悦びを持つ面では私が被った損失は「私という人間がエネルギーを変容する錬金術を使える」ことによってのみお得なのだ。
私は今の自分を幸福だと思う。また、自分の未来をより明るいものにする努力をたやさない。


長い話に付き合ってくれた方、本当にありがとうございます。
この話はこれで終わりです。

 

 

③両親の私に対する執拗な性教育と妹の在学1年めでの妊娠

f:id:pirinzaraza:20210918151541p:image

それは今年の3月のことである。番号さえ知っていれば送りつけることができるCメールの文章が唐突に待ち受けに表示された。
「久しぶり。ご報告です。この度、かねてよりお付き合いしていた方と結婚しました。お腹に5ヶ月の赤ちゃんもいるよ。大変だと思うけど、学校も卒業できるように頑張ります!
追伸 お母さんもまた会いたいって言ってるよ」
こんな文面だっただろうか。

 


読んだ瞬間、電波を超えて私が悪阻になったのかというくらい猛烈な動悸と吐き気に襲われた。
なんでこの人達は、わざわざCメールなんてものを駆使してまで私の「触らぬ神に祟りなし」というスタンスを突き破ってくるのか。
どこから書こうか、この一方的かつ順番だけいい風に変えて言ってみた妹のもはや特技であろう「都合の良さ」。
これだけでももう虫唾が走るほど気持ちが悪い。相手がどんな人でどんな関係かも書かず、安定期に入ったタイミングで突然Cメールを送りつけてくるのだ。それなら連絡が来ないほうがいい。過去のおまえはその程度の相手に助けて欲しいと相談をしていたのか。日本都合いい選手権を開いたら優勝できる代物の都合の良さである。それに加え、母はまだ50代のはずだが早くも痴呆になったのか、私とのやりとりの都合の悪い部分をまたケロッと忘れてしまったらしい。
この文面は翻訳すると
「ご報告です。この度私は2年も浪人して入れた実家から私立大学に行くことを名目に離れた結果、男と在学1年目で中◯しセッ◯スをして孕んでしまったので結婚しました!大学のお金はかかるけどお姉ちゃんが我慢してくれた分潤沢にあるので子育てしながら卒業します!私は頑張り屋さんなので子供を産んで育てます!親とは仲良しで応援してくれてます♪」だ。

 

 


ここから私の性的倒錯の話をしていきたい。
性に対しうっすら知るようになったのは小学4年生あたりで、大体の女の子と同じくらいだろう。
最初はゲーム等の娯楽を禁じられていた中で図書館で借りていたシリーズものの推理小説の話を母に聞かれたときに、意味も分からず「男の人と女の人が裸で抱き合う描写があった」おかしいよねと笑って話すと家族会議が行われた。「そういうものを読むと男性に愛してもらえない女になる」意味もわからないのに正座で説教をされ、その本を読むことは禁じられた。意味がわからないのにたまらなく恥ずかしかった。
それからしばらくしてだろうか、「おもしろフラッシュ」というサイトが流行った。
私もやってみたいと親にねだったら限られた時間のみ見ていいという許しを得た。そのおもしろフラッシュには所謂大人系のリンクやバナーが存在し、それまでそういうものを知らなかった私は「なんだなんだ?」とリンクを踏んだ。アニメーションで、同い年くらいの子のスカートが捲られるGIFも見たが当時興味本位でそこまで意味はわかっていなかったと思う。文字通り「知らない世界を覗いた」だけだ。うわー!なんか、すご…なんだこの世界…!という感じだった。AVを見たり変なサイトに登録したりなんて大それたことは出来るはずもない。これは、思春期なら誰でも通るちょっとした探検だ。


翌日、家族会議が行われた。父母揃って一つ一つのリンクを目の前で確認しながら質疑応答が行われ、「こんな子供が悪いことされるようなGIFなんか見て…お前は性犯罪者予備軍だ!お前を産んだことが恥ずかしい」「なんで?なんでこんなことが出来るんだ?お前は人間か?」と徹底的に詰められた。涙でグチャグチャになった。その場にいることがあまりにも恥ずかしく、自分という存在が愚かで汚くて仕方がなく、この地球上から消えてしまいたい心持ちになった。
今思えば「お前を産んだことが恥ずかしい?面白い話し方をされるんですね。このリンクにあるような行為をした結果が私で、それと同じ行為が存在することを私が知って一体何がおかしいんですか?」と返せるだろう。
近い年齢のアニメーションを踏んでしまったのも、私が当時の私くらいの女の子に欲情しているという捉え方はいかがなものか、あまりにも歪んでいる。普通に考えれば単純に自分に近いものを見ただけだとわかるだろう。
こうして私はそういうことに興味を持った自分の恥ずかしさや不潔さを心の深いところに刻まれることとなった。
今思えば誰もが知って当たり前のことで、むしろ知らないままに大人になることはまずいことだ。しかも女の子で、非常にデリケートな問題。もし彼らに善意があれば「気づいてもそっとしておく」くらいが最適解だったであろう。


それから月日が過ぎ去り、中学生になった。私はEメールを解禁された。他の子は当たり前に携帯を持っていたし、なんなら6個離れた妹も携帯を持っていたが何故か私は許されず、居間にあるパソコンで限られた時間のみEメールに講じた。そうした中で、多感な時期である。同じ部活の子の愚痴や隣のクラスの男の子とのちょっとした猥談も含まれた。


隣のクラスの男の子と猥談をした次の日、再び家族会議が始まった。メールにはパスワードをかけてあったが、パスワードはパソコンの所有者権限で私がメールを始めた頃から暴かれており、父母はまるで警察が泳がせた犯人を観察するかのように私がメールで人とやりとりをする様子を、罪に問える瞬間が見つかるまで眺めてはニヤニヤと愉しんでいた。
私が「勝手に見ないで欲しい」と言えば「反抗期」と笑い、愚痴や猥談をしている方が悪いだろうがとこちらが恥ずかしいと思う気持ちを利用し何度も何度も「この売女が」等一番触れて欲しくない部分に触れる。
答えられないのをわかっていて「どうしてこんなことをメールに書くの?」と一つ一つ開いて見せながら問う。「相手の親や先生にも言わなきゃね」とニヤニヤしながらこちらの様子を確認する。
それだけはやめてください、とこちらが嗚咽を漏らしながら泣き叫ぶと「子供の分際で親のすることに口出すな」と罵り最終的に私が死んだ目で「お願いします、ごめんなさい…」と繰り返すに至る。
そうすると「今の言い方はなってない。今の言い方からはお前が本心では謝りたくないと思ってるのが伝わる。今のは精気がないから心を込めろ。何をしたことをごめんなさいだ?自分の口で詳しく言え。そうやって心を込めて謝ることもできないのか反抗期め。このままいくと売女になってエイズで死ぬから今止めてやってるんだぞ。」などの発言が両親それぞれから乱発される。
大体こんな感じだっただろうか。
最終的には「相手の親と先生に連絡しなかったこの懐の大きさに感謝しろ」という形で終幕した。
どんなに恥をかいたとて、温かい布団で朝まで寝れることがいかにありがたいことかを年中夜中に締め出されていた私は知っている。眠れるならば優しい方なのだ。


父はこのような一連の流れを「雨降って地固まる」と言って気に入っていた。
この世で一番汚い言葉だ。


彼らにとっては私が苦しめば苦しむほど自分達の影響力や支配力を如実に感じられるようで恐らくあれは本来は私が絵を描いたり文章を書くとき、仕事がうまくいったときに得るような脳内幸福物質に近いものを感じてエクスタシーに近い瞬間を獲得する行為だったかのように思う。
私はこれを「他人を使った覚醒剤的効果」だと思う。これは推測だが、覚醒剤のように効果が薄れてくると再び打たなければ最初よりひどい無力感に襲われて自分が保てなくなる、そういう効果なのではないか。


だからこそ思春期の少女の抱く、特に性愛に関する秘めた羞恥心を引っ張り出して曝け出させてぐちゃぐちゃに踏み潰すことはさぞや対象の絶望感が直接的に伝わって気持ちよかったのだろう。彼らはその瞬間、一人の人間に関する全権限を握れる「王」としての絶大な支配力に陶酔するのだ。彼らのそれは私を使ったオナニー或いは薬物使用行為だ。


そんな関係性もあり、私は自分が「女の子」であって「女」であってはいけないような強迫観念に蝕まれるようになる。その一つの結果が、初潮が来たときに母に言えずティッシュ股間に詰めて3日間もひた隠したことだ。正月でお参り等移動する機会が多く、初めてでどのくらいの量が出るのかも推測が出来ず当たり前に履いていた下着やジーパンは血に染まった。普通の女の子の感じるアンニュイな感情とはおそらくまったく異なる意味で、生理になってしまった自分がまるで犯罪者になってしまったかのように気持ち悪く絶望的な存在に感じた。洗濯物も風呂でこっそり洗うなどして隠したりもした結果程なくしてバレたが、それについて特に言われることはなかった。

 


中学2年の時だったろうか。この頃の私には娯楽がなかった。
軟禁状態で漫画や小説を読むことも禁じられ、音楽を聴きながら勉強をすると集中できるという主張すらも気に入らないらしく「サボっている」と取り上げられた。あまりに娯楽が無さすぎて父が昔聞いていたスピッツのCDの歌詞カードだけをこっそり拝借して記憶の中のリズムに合わせて脳内で再生するのが隠れた娯楽だったくらいだ。どこの時代の、いやもはや無人島にでも住んでいるのかという程の文化の届かない空間である。
たまにスーパーに行くふりをして近所のワンダーグーで漫画誌の立ち読みをすることも救いであった。
元々多動傾向にある中学生が何もない場所に閉じ込められて何をするか。答えは「絵のついた恋愛小説を書く」だった。つくづく私もめげないものだなと思うが立ち読みで初めて知ったレディコミの、少女漫画とは違う大人の世界に影響を受け「自分も近いものを書いてみたい」と思ったのだ。
あえて直接的に言ってしまうならば当時人気だったジャニーズ系のイケメンといい感じに出会ってビックリする程チヤホヤされた後に性的展開に発展するという27歳の私が今ここでそれについて書いていることすら赤面ものである内容だがよくよく考えれば「そのくらいの年齢の子は皆そういうこと考えるよな」というものだ。むしろ、なんらかのキャラクターやコンテンツに頼ることなく恋愛未経験の中学生がご丁寧に色鉛筆まで引っ張り出して夢想を形にしているのだから結構大したものじゃないかと褒めてあげたいくらいくらいだ。
その、勉強しかさせてもらえない日々でこっそりとノートの下に敷き、少しずつ制作をしていた「アダルト恋愛小説ノート」も当たり前に発掘されるに至った。


今までにも隠し読んでいた漫画や小説を「掃除」という名目の元発掘されたことがあった。親の権限を大いに使い他人の部屋を漁ることが生業のような母であってもさすがに一応建前は「掃除」や「こっそりサボっていないかのチェック」だったために私は目立たない大学ノートでわざわざ中身まで確認しなければならないものは対象外であろうと考えた。それでも学校に行くときには教科書と一緒に持っていったりなどの工夫を凝らしていたが、ある午前のみ登校の日、迂闊にも過去にとった勉強用ノートの山に紛れ込ませれば気付かないのではと思いその山の中にノートを入れて家を出た。引き出しの裏やベッドの裏、換気扇の裏はかえってバレやすい。木は森の中に、大学ノートは勉強ノートの中に、だ。
数時間学校に行って帰ってくると散らかり放題の部屋の真ん中で母親が雄叫びをあげていた。見ると、私の例のノートが広げてある。一体いつからこの様な状態だったのだろうか、少し前に見つけて、私が帰ってきたタイミングを見計らってノートをセッティングして雄叫びをあげ始めたのだろうか。
帰ってくるなり「えっ」と声をもらし「なんで…」と言いながらノートを取りに走った私は「近づくなケダモノおおおおお」と言いながら放った母の足払いで盛大にこかされた。現実世界にそんなお蝶夫人的な人しか言わなそうな台詞を大真面目に放つ人がいるのか。母は大袈裟に震えながら「助けて…襲われる……この子に襲われる…!ヒィ…!」などと宣った。
もう、自らの羞恥心と隠していたものをたった数時間の間に見つける執念深さと自分のした行為を棚上げして人を非難する目の前の人間をどう扱えばいいのかで頭がこんがらがって収拾がつかなかった。なによりも、掃除という名目もやはり人の隠し事を覗き見るという彼女にとっての極上のエンタメだったのだということの実感がおぞましかった。ほかに楽しいことがないのか。
私は「近づくなァ」と言いながら部屋のものを手当たり次第に投げる母親に「なんで見た?!なんでわざわざ一冊一冊確認してまで探した?人が隠してるものをそうやって漁って見つけて楽しいか?」と言いながら私より12cmも身長が高い母に歩み寄った。歩み寄りながらも体格差では負けるし、そもそももうこうなってしまった以上どう収拾をつけるのか、今日は寝る場所がないかもしれない。それよりもこの後ずっと自分のしたことについて責められ続けるのか…なんでもいいから早く終わってほしいというしごく冷静な思考回路を働かせていた。もし私が体格差で母に勝っていて母を殴って黙らせることに成功したにせよ、その後帰ってくる父親は私を許さない。この後どうすればいいのかについてまったく想像がつかない。祖母の家に瞬間的に逃れるにせよ「エロ小説を書いていたのが見つかった」なんて言えるわけがない。祖母だって、今まで書かなかったが父母よりマシなだけで決してなんでも受け入れて助けてくれる程良心的な人間ではないのだ。羞恥を晒して普通に生きたいだけの私がより生きにくくなるだけだ。
私は母から無理矢理ノートだけ奪い取ってビリビリに破き始めた。そのすぐ後に部屋からドタドタ消えていった母が担任の先生を呼んだからもうすぐくる、お前のその狂った姿を見てもらうと勝ち誇ったように言ったときは「よりによって中年のおっさん教師が今ここにきて、彼に何をどう説明すればいいのか」ということを頭で猛烈に回転させながらも「とりあえず収拾がつくかもしれないということ」に安心した。親以外の身近な大人が介入することで、母や父から一方的に責められるという状況だけは避けられる。母のやった到底人権を尊重しているとは思えない行動に関しては先生にしっかりと公正に判断してもらおう。担任が来るまで狂ったフリをしてノートを破き続けて時間を稼いだ。


でも、先生だろうがなんだろうが他人だった。担任が家に着くなり外面ばかりいい母は「助けてください!うちの娘が気が狂って部屋のものをぐちゃぐちゃにして…意味がわからなくて」と言う。
部屋に乗り込んできた担任に私は「このノートをビリビリに破ったのは私だけど、部屋をぐちゃぐちゃにしたのは母なんです」と言った。担任は、念入りに何故こういう状況になったかを私から聞き出した。私は泣きじゃくりながら「見て欲しくないノートがあって…」と言った。ノートにはどんなことが書いてあったのか?母親がそこまで怒るほどの内容はどんなか?親に直接聞いた方がいいか?と問う中年男性教師に「親にだけは聞かないでください」と言って苦し紛れに「わ、悪口とか、不満とか書いてたんです…」と言った。担任は「そうか、じゃあそういうものを書いて見られてもしょうがないところに置いておいたのは悪かったな。先生が横にいてあげるから一緒に謝ろう」と言った。
もう、それから暫くのことは覚えてない。まあ父の言葉を借りるならば無事に「雨降って地固まった」訳である。私の羞恥心を大いに犠牲にして、だ。担任がその後あの事件がこっそり書いたエロ小説が原因だと知たったかどうかは今も知らない。

 


それから性愛に関する興味は心にしまって高校生になった。高校2年生の頃、モテないながらに隣のクラスの人と数ヶ月だけ付き合った。高校生の恋愛なんてそんなもんと言ってしまえばそこまでだが一応好きなはずの人がバスの二人席で横に座っていて、バスの揺れるタイミングで膝がぶつかることが気持ち悪くて居た堪れなく感じた。家に行ってそういう雰囲気になったときにはどうしても嫌で断った。その人が嫌というよりは、初めて生理になってしまったときと似た強迫観念で大犯罪者になってしまうような、もし身体を許してしまったらそこの部分でしか愛してもらえない女になってしまいそうな私が渡ったら確実に落ちる橋の前に立たされている気分だった。私はこの「渡ると落ちる橋」に気が遠くなるほど長い間振り回されることになる。


今思えば恋愛を性を抜きにして語ることなんて無理があるのにそうでなければいけない脅迫観念と内側に渦巻く興味とで板挟みになっていたのだ。


高校で出来た恋人とはそういったこともあり大して続かなかったが、なぜか「カレピが出来た」という話にはやたら寛容で同年代の友人のようなノリで話を聞きたがった母から別れて数ヶ月後のあるとき「あのさ…あんたも子宮頸がんのワクチン打った方がいいと思うんだけど変な意味じゃなくて経験があったら意味がないらしいから聞くけど、どうなの?」と妙なヒソヒソ声で聞かれて「ないよ」と答えた。母は「あ、そーなんだーそれだけ」と言って寝室に戻っていった。
妙に気まずい空気だった。
暫く経って私から「子宮頚がんのワクチンは?」と聞いたら「あ、あれは年齢がもうちょっと下じゃないとダメみたいだったー忙しいし間に合わなかったね」と言って誤魔化されたが、当時まだ高校生で早生まれだった私は年齢的に対象外であるはずがなかった。
なんとなく見てみぬふりをしていたが、大人になってからあれがワクチンなんて本当はどうでもよくて自分の娘が経験をしたのかしてないのかを聞き出したかっただけだな」と気づいてしまったときは猛烈に吐き気がした。あのときもし「経験した」と言っていたらまた家族会議でも開かれていたのだろうか。あの妙な聞き方、母はどうせ父に頼まれて聞いていて、寝室に戻った後はその話で持ちっきりだったんじゃないか。どうしてあの人達は「興味」という抱けば抱く程色んなものが開拓できて色んな人と繋がれて楽しいツールを、我が子を虐めることにしか活用できないのか。


私が性愛において本当に苦労をしたのは無論、親元を出てからだ。

 

 

 

②同じ状況にいる妹を救いたいという幻想による落とし穴

f:id:pirinzaraza:20210913143047p:image

さて、妹のことを書こうと思う。この話は後半私自身の性に対する倒錯と大きく関係してくるが、その前に一度区切りたいので今回は大人になってからの妹との関係性にのみ焦点を絞る。
今思えば「いいお姉ちゃん顔をしてみたい」「なんだかんだちゃんとした大人で頼りになるところを間接的に家族に見せつけたい」という劣等感からくる世話焼き心が根底にはあったが京都時代私は妹の誕生日には毎年少し無理して高めのブランドもののプレゼントを送っていた。
妹から両親の軟禁が辛いというメールが来るたび「辛かったら電車賃出すからいつでも京都へ逃げていいんだよ」と即座に返した。
当時私はちょうど妹と同年代の非行少女や関係がうまくいかず家族と離れて暮らさざるを得ない女の子達が集団生活を行う施設の寮母のようなバイトをしていたため、知識のあるおばちゃん等に相談をしてみたり親元を離れてでも進学出来る方法を調べて伝えたりもした。
あくまで強制はせず、死にたいくらいに辛かったり洗脳で視野が狭まってしまっているのであればもっと外の世界や違う生き方があるから逃げることは出来るということを知って救いの一歩になればいいと思っていた。

 


2年半前に私が上京したとき、妹は国立医学部を目指して2浪目であった。両親は私をエリートにして自慢する路線を諦め、優秀な妹を医学部に入れようと躍起になっていたが彼女は一浪をしてもどこの大学の試験にも引っかかることが出来なかったらしく両親が私に一浪を許さなかったときに宣った「女の子は浪人したら終わりだから絶対にさせない」というあの発言はなんだったのか、医学部に行くという高尚な目標があるから良しとしているのかはわからないが2浪目に突入した次第である。本人の自由だがもうこうなってくると大学受験という行為は両親にとっては負けの込んだギャンブルみたいじゃないか、と思った。
そんな二浪目に入ったばかりの妹にいいお姉ちゃん面をしたかった私は丸一日会えるという日にせっかくならとディズニーに連れていった。チケットも食事も私が持った。
たまには気晴らしできたらと思って…という私に妹は感謝の面持ちであったがパーク内を歩く内に「もし知り合いに見られたら恥ずかしい」とこぼしたのだ。「お姉ちゃんのようにはなるなって言われてるんだ」とももらした。
単純に一緒に歩くのが恥ずかしい風貌だったのだろうか。20にまでなって姉と出歩くことが恥ずかしい思春期じみた感性を持っているのか。そもそも私と来たくなかったのなら断ればいいのに、と思ってしまったが心にしまって夜まで酒や食事を沢山ご馳走して帰った。
帰り道でああこれはパパ活みたいなやつなんだな、黙ってチケットを2枚渡されたら嬉しいけど、一緒に行こうと言われるのはありがた迷惑な話だったのだと合点がいった。
それから一週間も立たない内に親に軟禁されていて自由のないはずの妹が同級生と立て続けにディズニーランドやシーに行っていることが繋がっていたSNS上で観測された。

 


ある時、妹から助けてという連絡が入った。お姉ちゃんと会ってることがバレた、と。
姉と会ってることがバレてなにが悪いのか、実家はどこの北朝鮮だ?と思いながら話を聞いていると私のSNS上からバレたという。
ここで大きな疑問である。私のSNSをなぜ両親が知っているのか?
私は上京する少し前にFacebookも前にやっていたTwitterのアカウントもやめて、大学関係や本名で繋がっていた人等足がつきそうな人と繋がっているアカウントは一つだけ残してそこに鍵をかけた。勿論アカウントには本当にLINEでも繋がっているような大学のほんのひと握りの友人しかおらず中学や高校の時の知り合いは全員切った。そうして両親が辿れそうな人を一切残さずに新しいアカウントを作ったのが「ピリンザラザ」である。本名まで捨てたのだ。


それを、いつのまにかあの粘着質の塊のような父がどうやって嗅ぎつけたのか知っており、あの居間にあるパソコンの画面に映して毎晩の楽しみとしてニチャニチャと眺めていたらしい。
考えるだけでも吐き気がする、どうして悪意しかない人間がそこまでして私を観察したいのか。
私にとってもう捨てられなくなったこの絵柄と名前、交友関係を人質に取ったように勝ち誇った気分でいるのか。私のアカウントを見るのは私の絵がすきな人で、私は純粋に好きなことをやって交流していただけなのに、どうしてそんなところまで日常の日課、ゴシップとして観察され続けなければいけないのか。
縁を切った娘をSNSでわざわざ見つけ出して観察してる異常性もさながら、どうしてバレたのか。

 

 


私の痛恨のミスは妹にアカウントを教えたことである。あんなに問題ある家族で育ったにも関わらず、妹をユダだと疑わない自分の馬鹿さ加減に呆れた。傷つけられても人を信じようと思えることは私の良いところでもあり詰めの甘いところであり、家族においては絶好の隙なのだ。
しかし、自分だけが酷い目にあっていい存在だったと認めることが出来ない私の病的な幻想故にここまできても妹が私を両親に売っているのだと考えることが出来なかった。「教えるわけないじゃん、勝手に携帯を見られたのかも」という話ぶりは母が父に私のメールを見せていたときと酷似していたが、すんなりとまた信じてしまったのだ。


そこから怒涛のように「今怒鳴られていて裸足でスマホだけ持って家出をして、友人の家に逃げこんだ」「どうしよう、もう家には帰らない」等の連絡が来た。
私は次の日の始発で二時間かけ靴を持って迎えにいき、「もう逃げよう、最初はわからないことが多いかもしれないけどもう20歳だから自立も出来る。シェルターや施設にも入ることは出来る。私のところにきてもいい。」と伝えた。
一緒に向かった先は私以外の家族は両親のその凶悪さ故に没交渉となっている父方の祖母の家だった。家族以外で力になってくれそうな大人がいることを妹に教え、また、両親が没交渉になっていることで妹が受け取ることが出来なかったけどいつか渡そうと思っていると祖母から聞いていた高校の卒業祝いのまとまったお金が妹にきちんといく機会を与え、今逃げる為の足しだったりもし家に戻ることとなっても軟禁されてる状態で逃げようというときに交通費やどこかに泊まるお金がある状態にできればとの思いからだった。
しかしその後祖母が呼んだ父方の叔父まで現れ、妹は説得のもと案外にもさらっと実家に帰った。
それから妹が通帳を作る手続きも出来るように手伝い、妹もこれまでよりは逃げる手立てがあって楽になったんじゃないかなと呑気に過ごして数ヶ月が経った。

 


妹からまた突然連絡がきた。「通帳を作ったことが実家に送られてきた書類からバレた」「10万が入った通帳は何処だと言われたけど言ったら没収されてしまうから姉に預けてそのまま知らないと言った」「両親は貴方のことを泥棒扱いしているが許してほしい、もうこの家はダメだ私も辛い」という内容だった。


このとき初めて目が覚めた。
私は勿論妹の通帳なんて預かっているはずがない。もし私が刑事罰に問われたらどうするつもりだったのだろうか。それより、親の知らない遠方の友人に預けた等言いようはいくらでもあるのにそのお金が自分のものになるように仲介した姉を「こいつならいいだろう」と売って、一方で自分は罪悪感を得たくないから許して欲しいとわざわざLINEで送ってくるなんて、あまりにも精神が図太すぎる。どこまで強欲で図々しいのだろうかと思った。
きっとこれまでもSNSしかり私のことを売ってきたのだろうけれど、妹が自分で言ってきたことでやっと認めざるを得なくなった。
「もう逃げられるんだし姉を売ってまで嘘つかないといけないのはおかしいよ、逃げたら?」と言うと「このまま受験を受けて進学したいから逃げられない」と返ってきた。


はじめてこの人は「逃げたい」と言いたいだけで逃げたい訳ではなく私が助けようとした手立てはまったくの無駄だったのだということに気づいた。妹のやけに真剣じみた相談は例えるならば彼氏の悪口を延々辛そうに話すが「別れれば?」というと「◯◯君にもいいところがあるの!」と烈火の如く怒りだすタイプのそれに過ぎなかった。
「それは結局親のご加護の元で進学したいってことで、他に選択肢を提示しても文句だけ言うのは流石に甘えているんじゃない?でもでもだってって人はもう助けられないよ」と送ると、もう返事は来なくなった。
私は劣悪な鳥籠に閉じ込められた鳥だったけれど、妹はふかふかのクッションが敷かれた鳥籠に好きでとどまっている鳥だった。

 

 


それが秋のことで、その次の年のゴールデンウィーク終わりに妹から「◯◯大学の心理学部に入学しました。今までありがとう!」というLINEが送られてきた。
頭の中ははてなでいっぱいだった。◯◯大といえば、私が現役で入った大学と大してランクの変わらない、実家から遠方の私学じゃないか。優秀だから二浪もすることが許されていたのに結局2年もかけて行ったのは私立の私と同レベルの、しかも医学部じゃないって全然失敗じゃないか。なんなら妹の方が2年もかけてんだから現役で入った私の方が優秀だったじゃないか。
医学部に行くっていう、姉を10万で売ってまで通した信念はなんだったのか。


あ、関西には何故か軟禁中にアプリで見つけてテレフォンエッチをしている韓国人の彼氏がいるから妹には都合がいいんだっけ。そんなことを考えた。
私は、それにしても何故5月に連絡が来たのかを問うてみた。どうせ3月に報告をすれば姉から邪魔が入るかもしれないとまた私がいないところで私の人格とはもはやかけ離れた人形劇じみた妄想による話し合いが行われた結果なのだろうという、それこそ被害妄想じみているがかなしくも当たってしまうような想像が頭に巡った。
妹は「後期で受かったから」「コロナ禍で」等の無理があるこじつけの文を送ってきたが、その簡単にそれっぽいことを言えば人を騙せる、都合のいい時だけ連絡して家族面したい姿勢にはやはり母の面影が見えた。

 

 


それからしばらくして、夏のことである。
祖母から突然LINEが来た。「引っ越しのことブログにあげちゃだめだよ」
去年の夏、私は上京して最初に住んでいた家から引っ越しをした。SNSに上げたのは大したことのない、荷物の一部として額に入った絵などを自転車の籠に積んだ写真だ。何処に引っ越すとも何も書いていない。「どうして私が私を好きな人と交流する場で、私の近況を載せることがおかしいことなの?」と返事をしたが、あぁまたあの粘着質の両親が私の別に文句の付け所等ないただの投稿を盗み見ている分際で品評などを交わし、それがなんらかの形で祖母に伝わったのだなと合点がいった。
ただでさえ絵以外のことはあまり呟かないアカウントで、久しぶりに動きが見れて面白かったのだろうか。あの家でトラブルが多かった理由がよくわかる。なんのことはない、彼らが火のないところに煙を立てる天才だったのだ。なんせ誰でも見れるように公開している、人が引っ越した程度の情報が何の話題になろうか。当の私はあの人達に未だにエンタメにされているという事実そのものが本当に気持ちが悪く、グエッ…とカエルのような嗚咽を漏らした。
人気商売だ。フォロワーが増えるにつれて距離感がおかしい人や変な捉え方をする人を受け入れることができないなんて次元の話はしていない。私はただ、憎くて気持ちの悪い、人を馬鹿にすることしか考えていない、過去に私にもたらした害が負債の様に降り積もっている状態の血族に私がお茶の間の話題を「与えている」構造が嫌で仕方がないのだ。まだ私からエネルギーを吸い取るつもりなのか、と。


数週間後、妹から連絡がきた。「10万円の件で貴方に誤解をさせてしまったということを夏休みに実家に帰って祖母宅にも遊びに行ったときに聞いた。誤解させてしまった言い方については100%私が悪かったと思っているが、それは誤解である」
要約するとこんなものだろうか。


わかるだろうか、まただ。また一方的で、事後報告なのだ。助けて欲しいと言えば私を釣ることができたうちは散々お金を使わせ、存在そのものを利用し、表面的には母と同じく「仲のいい姉妹ごっこ」に講じており、不義理をはたらいても祖母から聞いてはじめて、あくまで一方的に自分が悪く思われたくないという理由により要求だけを伝える。もはやコミュニケーションを取る気なんかないのだ。誤解されたくないにしては行動が短絡的すぎる、本当に心理学を学んでいるのか、共感性が低い方がカウンセラーは向いているんだったか…あんなに逃げたいと言っていた実家に夏休みに帰って祖母宅にまで遊びにいき、祖母との縁を取り持った姉に対してすべて事後報告で自分の都合のいいところだけ伝えればいいやというそのスタンスはこいつが母や父と同じで私を舐めくさっているのだということを物語っていた。

 


どうしてこの人達はこんなにも負のオーラを振りまいているのだろう。メールやLINEの一通が送られてくるだけで本当に文字通り精気が吸い取られるのだ。関わらないようにしてるのに、送られて来た文からは見下していることが透けて見えるから、あの家に生まれてしまっただけでこんな奴らに付き纏われている自分が情けなくてやるせなくなってくる。
「LINEを見なければいいのに」「連絡が取れない状態にすれば良いのに」と思うだろうか。
自分の情報だけが悪意ある者に覗かれっぱなしであることは怖いのだ。他人なんかよりずっと執着心の強い人間達だ。同じことはしなくともわざわざ連絡をしてくるのであればその内容から相手の動向くらいは推察しておくのは必須であろう。

 


「人がいないところで相変わらず噂話が楽しいみたいですね。」と送った。
妹は「父は確かにお姉ちゃんのTwitterを毎晩チェックしているけど、特になにも言ってないよ」と返事をした。誰も何も言ってないのにどうして私が引っ越した程度の話がまわり回って祖母から咎められるような文面で送られてくるのか?
名前を変え住む場所も変え全ての情報、交友関係をひた隠しにしてまでやりたいことのために作ったアカウントを毎晩チェックしていることをまるで普通のことのように言っている妹はなんなのか?それがストーカー行為で、異常行動だということをわかっていないのか。
ここでやっと、私は妹自身が父親に私のアカウントをバラしたんだろうなということに気がついた。口ぶりが母そっくりだったからである。

 


似たような状況に置かれている妹を救うことで過去の自分が救われるなんて風に思ったりもしたが、妹は妹で私ではなく、なおかつ私なんかよりもずっと優遇されたポジションにいることを見ようとしていなかった。
思い起こせば私以外の家族は普通に仲良しだった。妹が生まれてすぐの頃から母は妹を常に優遇し、私のたまに妹に話しかけたりすることや取るにたらないつっけんどんな返し等にさえいちいち口を挟み広げ無理くり罪状を言い渡し、私を悪役にしたてあげては土下座をさせ、一連のパワーゲームを愉しんでいた。妹にとっては幼少期からその光景は当たり前だった。
中学や高校の夏休み、父が自営業を始め母もその手伝いで家にいなかった。両親は妹にだけ玄関とエントランスの鍵をわたし、私は図書館で勉強することを名目に一日中締め出されていた。勿論通信機器もお金もほぼ持たされずに。もらえるお金は毎日120円のみで、自販機でコーラを買うかコンビニで安いパンを買うかが大きな選択となっていた。
耐えきれず私が小さい体躯を利用して風呂場の窓から身体を捻りいれて侵入したときなどはそれを両親に通報するのが妹の役目だった。
そんなことも、都合よく見て見ぬふりをし続けてしまっていたのだ。

 


私は妹を諦めた。
しかし、事件はまた忘れた頃に起きた。

 

 

 

 

 

 

 

家族に向けられてきた悪意に文章という形を与えて残したい①

f:id:pirinzaraza:20210912125634p:image

最近、私はいわゆる「スケープゴート」だったのだということに気づいた。スケープゴートとは「生贄の羊」という意味で、機能不全家庭における子供に課された役割の名称の一つでもある。これについて、大人になってから縁を切るまで・また縁を切ってからの私と私以外の家族の関わりを出来るだけ丁寧に描写しつつ、では幼少期には何をされていて今現在の私が何ならあれはおかしかったとはっきりと断言できるのかを書き起こしてみようと思う。
これは、私が将来大切な人と家庭を持ったときに気をつけなければいけないこととしての備忘録でもある。


実家を出たのは18の時、無事大学を卒業し高卒の両親の望み通り、名門大学の調べればすぐにわかる「日本一厳しい女子寮」へと入寮する形であった。言わずもがな私の希望ではない。泣こうが喚こうが関係なく、荷物すらも自分で纏めることもできぬまま「祖母の監視つき」で遠い土地の知らない場所へ文字通りぶち込まれた。女子寮自体も刑務所の方がまだ自由であろうというような時代錯誤のイカれトンチキぶりであったが、その話はまたいずれ書こう。
朝から晩までをきっちり管理されたうえに集団生活で互いが監視し合うというような体勢の女子寮ではあったものの、それでも実家を離れたことにより少しずつ目が覚めるようであった。
普通に友達も出来、友達とルームシェアを始めるという名目で寮を出ることにも成功した。
実家がいかに理不尽であるかはなんとなくわかっていたので必要最低限連絡も取らず、高校の時と同じノリで両親が成績表を監視し品評をつけてくるのも物理的に距離の遠いことの利点としてスルーすることが出来るようになった。
寮を出てから私は生活の為にアルバイトを始めた。居酒屋で200席もあるホールにお客さんが常にパンパンで走り回らなければならないきついバイトだったが、仲間もできて大学生特有の「職場で求められることが嬉しい」という思想にも浸り変に責任感を持って奔走していた。それでも生活は苦しかった。
大学1年から2年になる春休み、母親から一通のメールが届いた。内容は「父が経済的DVをしている。母も6個下の妹もろくに食事や生活の身の周りのものも手に入れられず、精神的に苦しい」というものだった。
私は過去に母が喜んで私を罵倒していたこともいたぶってきたことも記憶には充分あったはずなのに、何故か「頼られて嬉しい」と感じてしまった。遠くで暮らす私を「一人の大人」としてみてくれたから相談してくれたんだ、これには誠意を持って頼れる存在として多少見栄を張ってでも応えたい、と思った。
家庭で常に非人として扱われていた私は対等に扱ってもらえることに飢えていたのだろう。
そこで「今月は春休み期間だからバイトをがんばって、10万も稼げたから一部送るよ。妹といいご飯でも食べてきなよ」とメールを送った。
程なくして電話が鳴った。お礼の電話かと出ると耳が潰れる程の父の罵声が響き渡った。内容は「お前を勉強させるために大学へ入れてやったのにバイトばっかりして遊んでおかしい、という難癖であった。バイトをしないと生活が出来ない、春休みで時間があるとこちらが反論しても「誰のおかげで大学行けてると思ってる」と吠えるように怒鳴り続ける。電話を何度切ってもしつこく鳴り続けた。私は、自分が良かれと思ってしたことでがこんなにも非難を浴びていることに理解が及ばず、部屋の壁にスマホを投げつけて電池パックごとスマホから引き抜いてうずくまった。


それが父との最後の会話となった。これまでもこれからも死ぬまで更新されることがないからだ。
その後、「私が遊んでる」という理由により無理矢理入れられたはずの大学の学費支払いが滞った。このままだと退学することになると学生課で言われたときはそれも仕方ないかもしれないと思った。それでも私はまだ外の世界をあまりにも知らず、大学を辞めたら何をしていいのか大学を辞めたらさらに人間以下になってしまうのではないかという重圧に苛まれていた。
何しろ、大学に入るまで殆どのことを両親に監視されては勉強していい大学に入っていい就職先に着いて結婚することを叩き込まれてきたからだ。それ以外のルートが少しでも頭をかすめれば先回りしてコテンパンに潰され、そんな夢想を抱いた自分がいかに恥ずかしいかと頭に叩き込まれて生きてきたのだ。中学の頃お年玉でこっそりギターを買ったのが見つかったときも、絵や文章を書いていたのが見つかったときも、漢検一級を取ってみたいと言った時でさえ「無駄で役に立たないことばかり考えて現実から逃げてる、特別になれる人間は決まってるのにお前は夢を見て自分の人生を潰す」と何回も大袈裟に上げ連ねられ馬鹿にされた。恥ずかしい、恥ずかしいと泣かれた。美大や専門学校に行く人は将来のことを何も考えていない馬鹿だと教えられてきた。それでも受験時にせめて自分で両親の文句のないレベルの大学を選んで進みたいと望んで提案したこともあった。受験費入学費は自分で工面するから一浪してもっとお金のかからなくて更に頭のいい大学を目指したいという希望すらも当たり前の様に却下された結果が無理矢理入れられた大学で生活費はおろかついに払われなくなった学費であった。
今になって思うのは、彼らにとって勉強は「私に自分で自分の人生を切り拓かせない為の道具」だったということだ。
気がつけば両親からの手回しで奨学金の申請が行われていた。私は、見方によれば両親のエゴでぶち込まれた大学で他に出来ることがないという理由で大借金を背負うことになった次第である。
苦学生なんて沢山いるが、その苦労を買えるのは自分が選んだ選択肢だからだ。
幸い大学の授業には面白いものもあったりいい先生に出逢えたり、京都という土地を満喫出来たという点でも行ってよかったと思えることはあった。
だが残念なことに、未だその大学を無理して卒業したことが私のキャリアに優位性を発揮したことは一度たりともない。


次に最後の会話をした人物は母である。
その事件からしばらくの間、両親とは一切の連絡をとっていなかったのだが大学4年になる私の誕生日に母が私を訪ねてきた。というのも、ある日私の部屋に一通の封筒が届いたのだ。そこには近況と私に会いたいと思っている、誕生日の日の朝に京都へ行くから会って欲しいと書いてあった。
散々悩んだが、私自身両親と不仲である状態の拠り所のなさを周りと比べてコンプレックスに感じていたことやわざわざ遠くから来る人を放って置けないという理由から母を迎え入れることにした。母とは観光をしつつ他愛のない会話を楽しみ、帰り際には泣きながら「悪いと思ってた」と抱きしめられた。私もこの時ばかりは単純に感動したものである。距離感や立場の違いで、親子というのは分かり合えるのだと思った。そしてまた「自分はやっと対等に扱ってもらえるようになったのだ」という両親にしてみればチョロすぎる勘違いをするに至った。
それからしばらくの間、母はちょくちょく京都へ来るようになり幾度となく「いい親子ごっこ」が展開された。
それが終わったのは大学を卒業してしばらくした頃だ。私は再び京都へきた母に就職することをせがまれていた。その頃私は絵を描くことを通して初めて生きることの喜びを感じ取れたり、非正規だが在学時から掛け持ちで働いていた仕事も安定しており就職に対する熱は全くなかった。金銭的にも生活的にも自立していて特段迷惑をかけているわけでもなく、両親からは支配されていた歴史があるので自分の将来に口を出されるのはもうほとほと勘弁だったのだ。今思えば在学時からクリエイティブ系の就職を視野に入れておくのが最適解だったかもしれないが私は当時営業か事務以外の仕事があることすらも知らなかったし、会社に入って働くことに人生のうわっつらを決められてしまうような、自分の人生がなくなるようなマイナスのイメージを抱いていた。


母の説得がましい口調に過去の支配の片鱗を見た私は「聞きたいと思ってたけど黙ってたことなんだけど…」と切り出した。母自身が私にはたらいた虐待についてである。例えば◯◯さん(近所の主婦)と母がどっちが若く見えると思う?というなにげない質問に「◯◯さん」と答えてみたら両親揃って鬼のように怒り出して「あんたはうちの子じゃないから車から降りて」と本気で喚かれたことや夕方部屋で勉強をしておりご飯どきにリビングの扉を開け、食事をしている様子もなかったからそのまま部屋に戻ったときに「今つまんねーな、バカじゃないのて言っただろ。妹もはっきりと聞いたと言っている、と髪の毛を引っ付かんで壁に身体を叩きつけられながら詰られ、何度も「言ってないけど勘違いさせてごめんなさい」と手をついて謝ったが許してもらえず「顔も見たくない」と言われたこと。ちなみに夕食時にわざわざ声をかけてもらえないことも多かった。部屋にいるのに今食べているという時間を見計らって行かないと先に母と妹は夕食を済ませており残り物をレンジで温めて食べないといけなかった。忽然と一人で食べることが出来れば楽だったのに、虐められても孤立するよりはマシだと思いがちだった。他には11歳のとき体調がおかしく何度も母に訴えたが取り合ってもらえず、結果部屋で盛大にゲロを吐いてそれを母に伝えたが「今妹の寝かしつけで忙しい」と言われて涙と臭いによる嘔吐でぐちゃぐちゃになりながら自分の嘔吐物を片付けたことも印象深かった。家から7キロも離れた冬の暗い道に自分だけお金も通信手段も何もなく降ろされ、怖くて走って帰ったときに「自力で帰ったにしては早すぎるからお金を隠し持っていたんだろう」と妙な怒り方をされたこと。
数え切れない程ある理不尽なエピソードの中で、明らかにおかしいと思うそれらを母にどう思っているのか、謝って欲しいと話したところ、母の表情は最近では見たことがなかった形相に変わり「お前は親になったことがないからわからない。どれだけ子供を育てることが大変なことか。わからないことでそうやって裁判のように親を糾弾して謝罪させようとして楽しいか。お前が自分が正しいと証明したいだけ。父親にそっくりだ。親だって間違えることはある。そんな風になんでも自分が一番正しいと思って生きていって孤独に死ね。お前はわざわざ過去の嫌なことにとらわれていつまでも掘り返していて不幸だ。」と言った。
最後の台詞については到底的を射ていない論ではないが、他人が人のトラウマに口を挟む時点でエゴであるにも関わらず加害者が被害者に言うなんてことは言語道断の次第である。
彼らは何かにつけて「育ててやった恩」というカードを水戸黄門の印籠の様に切りたがるが、そのカードは使うたびに摩耗され、今となっては擦り切れた屑しかないということにこの後に及んで気付かない、いや気づく気がないのだ。
私は「過去のことは過去のことで、それはもう変えられないから今後あなたと付き合って行くためには今の自分に対して誠意を見せて欲しい。これは過去の関係の話ではなく、過去を清算することでの現在進行形の未来の話です、と主張をした。しかし、彼女が私に謝ることはおろか、罪を認めることはなかった。再開時に言った「悪いと思っていた」は学費を振り込まなくなったことについてであり、それについても母は「父にうっかりメールを見られちゃって〜」と弁解してはいたが、一度も父の主張を悪いとは言っていなかった。言うまでもない、母自身が父にそのメールを見せていたのである。その後わかったことだが、母が頻繁に京都へ足を運ぶ様になったのも粘着質な父による差し金、もとい潜入捜査だったというところであった。私そのものがエンターテイメントであり、両親は常に私に関する情報を共有し合ってその醜いスパイごっこを日常のゴシップとして楽しんでいたのだ。
彼女は最後に、「あんたに謝ったら親の威厳が失われる。あんたは親にとって何をしてもいい人間なんだから謝る理由がない」と宣って去っていった。少しばかりの親子ごっこで抱いた信頼は「私は騙されていたんだ」という気づきと共に崩れ去った。


それから半年も経たずして、母親から再びEメールが届いた。人に対して言ってはいけない最低な言葉を放ったことも都合よく忘れてしまったのかケロッとして「またいついつに遊びにいきます」という文章と近況、もう崩れている理想の母親像に陶酔していると思われる思いやりめいた文。吐き気がした。こいつは、いつだって人を無碍に出来ない私の好意や劣等感を利用して馬鹿にしてきた女だ。あのとき京都のカフェでこれが最後のチャンスだと何度も言ったのに認めなかったくせに、よくもまあまた都合もよろしく親子ごっこのふりをした現状調査兼洗脳を試みようとしてきたもんだな、と。
生まれてからずっと舐められているのだ。私が偉い人になったってお金持ちになったってきっとこの人たちには舐められ続けることには変わりないのだ。
そう思うと心の中のなにかがポキっと折れた。無視してもよかったがやはり無駄に京都に来させるのは悪いと思ったのでせめてもの優しさでこの前のことがあった後でもう付き合うことはできないこと、過去に因縁のない友人だったとしても「私には何してもいい」なんて平気で言ってしまう人と関わることは私の人生において必要ないこと、もし来ようが探そうが私はその頃には京都にいないことを伝えた。
母は再び一転し、地獄の様な恨みの文章を送りつけてきた。もう、それは誰のことを言ってるのだかわからないレベルの人格否定の嵐だった。「お前に手を差し述べてやってるのに人の優しさを受け入れられないなんて精神的におかしい状態なのだろう。お前は今の人間関係に満足しているからわざわざ自分に酷いことをするかもしれない人とは関われないと書いていたが幸せな人間はわざわざそんなことは言わない、お前は職場も交友関係もうまくいっておらず不幸なのだろう。お前の様なやつはいつか人を殺して犯罪者になる。それまでに私がなんとかしないといけない」などなどの決めつけにも程がある狂文であった。私は一度は「それは誰の話をしているの?貴方が話しているのは私の他者から抱かれる人物像と大きく異なります」と返したが埒があかず私が傷つくだけなので返すのをやめて着信拒否をして酒を飲んで寝た。ショックというよりは怒りとせいせいした気分だった。
謝ってもらうことではなく、認めてもらうことを諦めることで過去を清算出来た気がした。


因みに、私の名誉の為に言いたいがその頃の私は上京して絵を沢山描くことや色んな人と関わることを目標とし貯金を増やしたり時間があれば描くことに費やし、当時してた仕事も本当に毎日楽しく平穏な日々を実感していた頃だった。その頃に出来た老若男女問わない友人とは未だにたまに連絡も取り合っている。やっと自分で一から見つけた幸福すらも簡単に否定されること、してもいいと思っている人間性が許せなかった。今も許せない。私の輝かしい日々は紛れもない宝物で、誰かに否定されたからと言って霞んでしまうものでは決してないが、人の宝物にわざわざ傷をつけようという行為を平気で出来る人間には迷わず軽蔑の烙印を押させてもらう。私にとっての軽蔑とは、その人間が畜生道に堕ちたことを意味する。人間ではなくなったということだ。
それにしてもそこまでの危険人物だと思う相手とわざわざ関わりたいと思うなんてどういう心理状態なのだろうか。どうして彼らの中には「嫌なら関わらない」が存在しないのだろう。大した理由もなく「人殺しになる」なんて決めつけを行なってしまうのは、やはり自分達自身がいつか報復されてもおかしくない関わり方をしてきたという自覚が潜在意識の片隅にでもあるからだろうか。
母のパートはここで終わりである。これが、私の中の短かった母親史だ。ここに今後いい言葉が書き加えられることはない。


親だって間違えることはある?ふざけるな、お前のは瞬間的な間違いではなく永続的な悪意そのものではないか。

 

 


さて、私には6つ下妹がおり私は18で家を出てからというもの妹を「庇護対象」として見てきた。それには父のくだりの時のように母や妹自身が「自分が弱い存在である」と主張していたからという理由がある。私は母が父のスパイだということがわかった後も、妹がメールで言う「自分は姉が家を出ていった後に新たな生贄として家族に軟禁され勉強を強いられている」という話を鵜呑みにしていた。
子供は親を選べない。妹がどんなに幼少期両親と一緒に私を馬鹿にしていたとしても、同じ立場に置かれてしまっている妹の力になることが過去の自分を救えるような心持ちになっていた。
まあここまでの展開を見ればすぐにわかるのだ、私はこんなにも騙されてきたのにあまりにも弱味が丸見えで、それを埋めようとすればするほど家族に漬け込まれるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

部屋が半端なく散らかっていると動かなくなる

f:id:pirinzaraza:20210712013905j:image

大抵「何かがおかしいとき」というのは行動が単略化されすぎている。

最近の私といえば展示を言い訳に洗濯物を溜め洗い物を溜め、部屋にはあと1cmだけ中身が残っている500mlペットボトルのコカコーラゼロが散らばっている有り様だ。(私はこれを『コーラの死骸』と呼ぶ)

部屋が散らかっていると自分の領土が段々と狭められていき、しまいには元々狭い部屋のベッドの一部分のみが私の自由の効く空間となってくる。こうなるともう何もしない。

よく、「買い物に行く服がない」というあるある的な表現を耳にすることがあるが、こちらとしては「片付けをする余白がない」となってくるわけである。

わけである…と物々しく言ってしまったがいまいち伝わらない例えだったかもしれない。

言うなれば「どこから手をつけたらいいのか分からない状態」というのが人の不幸の元凶のように思えてくる。

朝目が覚めたとき、わりかしハッピーな気分で家に帰ってきたはずのとき、自分の中にある余白を感じ取ることが出来ないがために「何をすればいいんだっけ」が「私って何をしてたら楽しいんだっけ」にすり替わって途端に電池の切れた機械人形のように動かなくなる。

実験で鬱状態のマウスを作るためにはマウスをギチギチの筒みたいなところに入れて身動きを取れなくすることで『身動きがとれないから何をしても無駄』ということを学習させる、というのがあったが私の部屋の現状というのはまさに自分でこの筒を作って自ら筒に身体を滑り込ませているようなものである。

 


私は今中野で絵の展示を行っており、実質無職状態が続いてはいるもののお金が尽きているわけでもなく、優しくて面倒みのいい恋人もいる。

展示はすごい。もう、一生分くらいと言っていいほど人に褒められる。私が描いた絵たちがちゃんと人に伝わっていて、私が言って欲しかった言葉が絵を通して得られる。

緊張する場面や自分なんてと思う場面もあるが、一過性の心身の負担よりも得られるものは大きい。

私の中の、憎しみや人にいいように言われてどうにも腹が立って毎晩のように思い出すあれやこれが、まっすぐに褒められることや作品を買ってもらえること等で浄化されていくのだ。

 


つまり、私は結構ハッピー状態で、現状目の前にあまり嫌なことはないはずなのに、家に帰ると目の前が真っ暗になる。

なんと言えばいいのだろう、一人で歩いていたり一人でカフェで休日の時間をぼーっとすごすことは心地いいが、病院の待合室で呼ばれるのを待っているときは常に落ち着かずソワソワしてしまう。

 

部屋に帰ってくると「動かない」為か気持ちがずっと待ち合い室でソワソワと何かを待っているような状態になる。

 

圧倒的に部屋に問題がある。

人に褒められウキウキで帰ってきて「今日は珈琲でも飲みながら映画を観ようかしら♪ピノも買っちゃおう!お香も焚くぞ!」と「一人で楽しいOLっぽさを自らに演出してみたところで、部屋に帰ると映画の音が耳に入り続けるということも億劫で、結果として何もせず動かなくなる。

掃除をしろという話だし、もちろんこれを書き終わったら掃除をしようとは思っているのだがこの鬱屈とした感情というのは、本当に、「ハッピーな持ち物を持っている人」「欲しかったものを手に入れた人」にはにつかわしくないのだ。

 


家に帰ると自分の空っぽさをまじまじと感じ、まるで中学生の頃のように「こんな私で周りの人に見捨てられないだろうか」という不安の種が積み上がっていく。

最近あまり絵を描いていなかったのも要因の一部だろう。

この回のブログには答えはない。

幸せなはずなのに人に見捨てられることばかり考えて一人で息苦しくなっている自分のために本当は何をしてあげるのが正解なのか、ただ目を背けてフワフワと浮遊している訳ではなく地に足をつけて目的地を見据えた状態で安らかでいられるのかを問いたい。

 


あまりにも酷いのだ、アルコールが抜けていく若干の二日酔い状態のときなんて、離脱症状なのかどうあれば自分が安心していられるのかを考えることすらも怖い。眠りという手段で意識を失ってしまった方が早い。

人に愛されたことがないから、酷いことを言う人がいたり誤解されやすいことに怒りを感じるから…とかではなく、その条件が取り下げられたところで待っているのは他ならぬ「自分を大事にしてあげられない自分」なのだ。

 


今までの私は怒りや劣等感をバネにもがいて動いていたが、怒りや劣等感に自分を縛りつけることによって自分自身に目を向けることから逃げてきたのかもしれない、とこの頃思うのだ。

悪の組織のボスが最後にいうセリフみたいな思想だが、気づけるのはちょっと格好がいい。

 

いや、しかしそこを反省してしまうのはまだ早いようにも感じる。怒りや劣等感はあってもいいだろう。自分の中の怒りという感情の権利を律してはいけない

無職がザノンフィクションを見て50手前のアル中ニートに感化された話

f:id:pirinzaraza:20210626191950j:imageあまりにも日々が漫然としている。漫然とした日々への焦りから計画的行動を起こそうとすると頭がショートして再び漫然へと戻るサイクルを繰り広げている。そのため焦りを感じた瞬間に無駄に鼓動がいっとき妙に早く脈打った、というだけの事実のみがただ残される。少し前から気づいていたがこの「ひどい焦り」の決め手になったのは3、4日前の深夜につい無職の分際で手を出してしまった「ザ・ノンフィクション」のある回だろう。私が観た回はガードレール下のある呑み屋で酒を引っ掛けている婆さんとその息子に密着した回で、息子は47歳、無職のアル中であった。ただ「無職のアル中」という言葉のイメージとかけ離れていたのは息子が50手前の人間とは思えない程純真無垢で、酒を飲んで暴れている姿から真面目に話しているときの挙動まで一貫して10歳前後の少年のようであったことだ。下手すればもう少し幼いくらいかもしれない。
その回がいつ放送されたものだったかは確認していないがおそらく10年以上は古そうな画質で、当時で47だったということは彼が若い頃には「発達障害」への認識及び理解があまり広まってなかったのではないか。その番組は親の年金に甘えてアル中生活を謳歌している人間にクローズアップしているというより、どう足掻いてもその生き方しか出来ない蟻地獄のような生活をそのまま切り取っているように見えた。「どうにかしようにも、どうしようもない」という鬱屈とした空気が画面全体に漂い続けていた。


ここで私の話になるが、私は「他にもっと苦労してきた人はいる」ということは大いにわかりきったうえで自分の半生はなかなか酷いものだったとはっきり言おう。幼少期からの八つ当たりによる肉体的な虐待、食事をもらえない家に入れてもらえないなどのことは置いておいても呪いのような人格否定の数々による徹底した自己意思の否定により、空っぽの状態で遠く離れた親の体裁自慢用大学へと送り出された。ほとんど援助のない状態で、なんのかんのと私の非らしきことを最もらしくでっち上げられ、それを理由に入学金と最初の学費以外の費用は払われなかった。
辞めて何かが出来ると思うほど生きる術も明日より向こうを見る力もなく、そのまま奨学金を借りて生活費のために色々なバイトをしながら学校へ通う生活がほぼ強制的に始まった。
だが、ほとんどの仕事で人と深い人間関係を築いたことがないことによるコミュニケーションの壁や自信のなさ、意思表示をする力の弱さが全面に出てしまい不当に馬鹿にされることや搾取されることが癖になってしまうことの繰り返しであった為、親元を離れてからの生活も生きていて楽しいと感じれるようなものではなかった。
人に相談をすれば「甘えている」「社会を舐めている」の一辺倒の説教をもらい、社会に守られている立場の人間に社会を舐めていると言われる矛盾に怒りを覚えつつもそうされる自分を受け入れてしまうような意思の弱い人間なのだ。。
それ故にお金を稼ぐことも人と関わることも、一人で部屋にいる時間をただやり過ごすことでさえも、起きている間の時間という時間が視覚化されるならば小さい針でぷつぷつと自分を差し続けるように居た堪れなかった。


そういった過去があった為、これは私の非常に悪い点であるがどうにも自分より恵まれた環境にいる人に対して非難的なものの見方をしてしまうようになった。例えば、失敗したら実家に帰ればいいという保険のある破天荒風な人や、18超えて実家暮らしで親の悪口を言っている人などはその対象になた。
「パンがなければケーキを云々」と言えるような貴族が城の人間関係でめそめそしているのを可哀想というのに明日食べるパンもない状況で毎日気丈に振る舞っている貧民が根を上げたらそれは我儘だとされるのか、と事実ベースの悲劇的妄想が遠い誰かのSNSを通して肥大化する。


しかし、ザノンフィクションで見た彼は「我儘なくせに悲観的な貴族」ではなく私と同じように「生きていていい時間軸」を見つけられないから起きている間の時間を針のむしろに覆われるように鬱屈とした感情で漫然とやり過ごし、その為に目が覚めれば酩酊するまでアルコールを摂取している様に見えた。VTRの限りだが彼にそれ以外のなんらかの趣味は見受けられなかった。


母親から一心に愛情を受け、責められつつも居てもいい居場所があって明日死ぬようなことにはならない、甘えきった様な状況にいるように見える彼に羨ましく思う気持ちよりも自分と同種の苦しみを持つのではないかという気持ちが募っていく。そんな、今までの自分が字面だけ見たら「羨ましい」と判断し非難してしまうような持ち物を持っている彼の生活が、ゆるやかな死への道でしかないことが番組の後半でわかる。4年後、彼はあまりにもあっさり亡くなってしまったのだ。
自殺ではない。彼の世話を出来る人間が、たまたま不在だったというだけの話だ。


途中省いてしまったが、彼もずっと無職な訳ではなかった。過去にはきちんと働きに出ていたこともあった。番組の中盤では母親の飲み友達であり家族以外で唯一彼を気にかけてくれた人が大病を患って「こうなったら誰も助けてくれないぞ。自分の力で生きろ」と言ったときや、母が心労から衰弱し入院することになったときにはおそらくは「働くことの意義」を考えることよりも先に「働かせてください」「お願いします」と方々を駆け回り窓口で年齢を理由に門前払いを食らっていた。
それでも彼は諦めず、なんとか番組スタッフの紹介で仕事を見つけてきちんと通うことができていたのだ。
印象的だったのが、彼がその職場の寮で暮らすことが決まった日に素面で述べた「自分は経歴も技術も体力もないから目の前にある出来ることを頑張るしかない」という旨の発言だった。普通のことを述べているだけなのだが、私には彼の口からそういう言葉が出てくるのが意外だった。
意外、というのは少し違うかもしれない。例えば身体に同じ痛みを受けるのであれば、気絶していたり麻酔が効いていて感覚がないような状態であってほしいと思ってしまうのと同じように彼の様に仕事も趣味もなくおそらくは他の人が人生で味わうことに何分の1も楽しい思い出を持つこともなく、毎日をやり過ごしている状態の人には自分自身に対する感覚も麻痺していて欲しかったのだ。
自分に何が足りなくて、何をやるべきで何ならできるかなんてことを人前で素直に語れるような人間がこんな袋小路のようなところにいていいのか。
自省することを辞め、社会のせい世の中のせいと主語ばかりが大きくなる、獣の様な人間だっていくらだっているのだ。
もしくは、挙動の幼さ通りにそもそも自己に対する思考が及ぶことのない程無垢であれば、出来ないことが積み重なってきた現実の重みから解放されていただろう。


実はこの手記は書き始めた当初から二週間ほど経っているのだが、こんなにかかってしまったのは後半に行くにつれ私も他人事の様につらつらと書いてきた彼のことを通して自分自身を見なければいけなくなったからだ。
勿論、まったくの他人事だったらそもそも書き始めることもなかっただろう。だが、稼げなくても母親という唯一無二の愛情を与えてくれる存在があって、居場所だってある彼がそれなりに1人で苦労してきてずっと孤独だった自分と重なるのが一体どうしてなのかということを考えたときに「じゃあ人間には何が必要なのか」「私と彼には何が足りないように見えたのか」を考え至る必要があった。


私はヘンリーダーガーやゴッホのような、他者から見たら何ら理解の出来ぬ面白みもなければ社交性にも欠けた「人生を楽しんでなさそう」な人間がその孤独故に濃度の高い自由を内部世界に見出して類い稀なき存在となることを、とても美しく価値のある凝縮された人生の煌めきだと思う。私と同じ様に彼らの孤独の美しさに酔狂する人、憧れを抱く人は全世界でも多い。
一方で人間はやはり社会的な生物で、社会的に必要されないという状況は人を蝕む。ゴッホの精神面が穏やかなものではなかったというエピソードもまた有名だ。
彼らに煌めきがあるのは「救い」を内に持っていたからだと思う。
その「救い」と「社会的役割」の両方がなかったことが過去の自分と件の彼を私が重ねて見てしまう部分に思えた。
突飛な仮定の話であるが、もし彼が資産家の息子だったりして沢山お金があって、世話をしてくれる人にも困らなければこのような死に方をすることはなかったかもしれない。しかし、社会的な役割に恵まれなかった時点で彼の日々が漫然としていることには変わりはないように思える。
無論精神的に自立した「大人」ならば社会的な役割に恵まれなくとも先に上げた偉人たちの様に人生に煌めきを見つけることができる。何も自分を主体にした芸術である必要などはなく、アイドルやアニメに熱狂したり、ゲームに没入したり、または宗教やスポーツやペットを飼うことなど、人間の内なる部分に煌めきを与える「趣味」というものは幾らでもある。
もし件の彼の「50手前、アル中」というプロフィールに「一日中ゲームをしている」「アイドルのおっかけをしている」などが付いていたら私はこんなに絶望感に心を動かされることはなかっただろう。

 


障害や周囲の環境により、好奇心やこれなら好きだ、得意だといえる何かが育たない人がいる。
私は2年ほど非行少女の住む施設で寮母のバイトをしていたことがある。彼女たちの多くが家庭に問題があったり先天的または後天的になんらかの障害や精神疾患を持っていた。
彼らは一見すると人懐っこく朗らかだが、先述でいう「煌めき」に対する土壌を持たぬ感じをよく見受けた。
話の流れ的に「煌めき」とひとくくりにしてしまったが「何かに深く興味を持つ能力」「思考に枝葉を持つ力」が同年代の子に比べるととても弱く感じた。
これには突如外に出てきたときに眼圧がかかるほどの眩しい、晴れた日の空の綺麗さや森林のすーっとする穏やかな匂い、道端で見つけた小さな花の鮮やかさに「自分が今、それを見て、感じている」という「自分らしい」体験を認識しているか否かということも入っている。
そういう、当たり前に対する「自分が獲得した体験」という意識を持たぬことにより幸福度を測るものさしがより刺激的でわかりやすい、「自分の外からもたらされるもの」に左右され自ら相対的な不幸状態を背負い込んでしまう。


こんな風に他人事で長々と文章を書いている私自身も、18で家を出てすぐの頃から絵を描くことを覚えるようになるまでそうだったのだ。だから、自分だって無職のくせに「彼がどうあったら幸せになれたのだろうか」などと神様目線で考えてしまうに至ったのだ。
私は彼を通して自分自身にかつてあった、今でも油断すれば戻ってしまいそうな「生きがいのない」「私らしさのない」灰色の世界を追体験していたらしい。誰からも求められていないのに、自分からも求められていない世界は本当に、あまりにもあまりにも寂しい。好きなことがあることがどれだけかけがえのない、1人の人間が生きていてもいい理由になりうることか。
たまたま好きなことに出会えて、たまたま好奇心の土壌がこっそり残っていた私が今救われているとするならばそれを容易には手に入れられない状態の人が救われるには、何が必要で何をすればいいのだろうか。


この文はすべて、私のエゴでしかない。彼は彼で酒があって母があって家があって、それで幸せだったのかもしれない。あくまで私が自身を投影した決めつけの話だ。

私には今職がないけれど、日々を楽しむことができる分マシだという浅ましい選民意識まで滲み出てしまっているかもしれない。誰かに手を差し伸べることができるとも思っていない。他人を通して自分を見るに至った、あくまで思考の寄せ集めでしかないのだ。