ピリンちゃんの2019年と心に城を持ちたい話
12月に入ってから何度かこの一年のことを総括してブログにでも書いてみようと思ったがどうやら時系列に絞って広く浅く思い出して書くということがあまり得意ではない、もしくはそれを出来る程度に今年の自分を全肯定は出来ないことから断念した。
たまに読んでくれている人もいるらしいのでしばらくぶりにブログを書いてみる。
私はツイッターにはよくおめでたい絵とおめでたい言葉を書いていたり人と会っているときはそこそこハッピーな人間であるので「歩くおめでたい」を名乗りたいくらいだなと思うこともあるくらいだが、内情は一人でいるときのハッピーとはかけ離れた性格の自分を励ます為のピリンちゃんだということを私について知りたい人しか読まないこのブログで伝えておく。
ブログは素面の時しか書いていないが、あまり読み返すことがないので似たようなことを記事に書いている可能性もあるがまあ私が忘れているということは皆も忘れているだろう。
なんとなく気の利いたことを言える気分にも人を癒せる言葉を放出出来そうな気分でもない年末である。
自分が東京に来たことを間違っていたとは絶対に思わないが、精神の変動を求めてやってきたこの街に私は自ら翻弄されて疲れてしまったらしい。
出来るなら今日からまる1週間くらい家に引きこもって何もしないで誰とも関わらないでただ絵を描いてすごしてみたい。
クソみたいな絵が描けそうだ。
東京にきたばかりの頃の自分はこの部屋の中以外にどこにも行く場所がないことが嫌で嫌で仕方がなかったはずだが。
心の平穏なんてものは心の平穏を意識しないと得られないということはよく知っている。
自分の周りで起こることや自分が酔っ払って起こしてしまったこと、不本意なことや思い通りにならないこと、どうしていいかわからないこと、それらが本当になくなったときに私が幸福でいれているかといえば、それは一時的なものに過ぎないというのが私の中の答えだ。
何故なら京都で上京することを決意したときには私が今抱えてる問題は一個もなく、その代わりに平凡な日常に圧迫される心が石みたいにどっしりと置かれていたからだ。
今の私の体たらくは平凡で幸福な日々とそれを支えてくれた人たちを自ら捨てた罰かもしれない。
楽しいことはいっぱいあっても沢山の見えない壁にぶち当たって、自分という人間の矮小さを知る。
透明になりかけた自分を見るくらいなら一人ぼっちのお城に額縁に入れた思い出たちを飾りながらいずれ来る餓死を待ちたいと何度望んだことか。
東京に来て思い出は沢山出来た。友達も居場所も出来て、自分もちょっとだけ輝けていたと思う。
だからこそ今まで何も人生の旨味を知ってないから頑張って生きてそれだけでも手に入れなきゃという気概みたいなものがなくなってしまったのだ。
楽しい思い出は自信にはならず、ディスプレイになった。
そんな風に思いながらも「果報は寝て待て」なんて呑気で平和な言葉を見出して「一人の天才が誰にも見つけられずに死んでいくよ。いいの?」なんてチラッチラッと外界にSOSを送りたくなる私が相当にダサすぎて傲慢で嫌いである。
2年後くらいにこのブログを読み返すことがあったら、たとえ道端でホームレスをやっていたとしてもたとえどっかの見知らぬ国とか田舎とかで私じゃない私になっていたとしても、「ああこんなことで悩んでたねえ」と笑えるだろうか。
本当は2年後の自分にでもなったかのように情報を再整理して見たくないものは見ずに、心の城を守りながら外側の世界で頑張っていけたらいいのだが、外側の私がどうにも疲れてしまっているらしい。
あんたはよくやってるよ、一年前の自分があんたの状況みたらすごい!!!!て言うよ。夢あるよ、東京きてよかったね。色んな人に出会えてあんたが見たかった景色沢山見れたね。
と自分に声をかけるたびに思う。
いやいや、そんなことじゃないんだ。
いいことも悪いことも起こるから頼むから外部刺激に惑わされずに何にも振り回されない自分でいてくれと。
そんなことすらも度々言い聞かせていたのに調子に乗って忘れてしまっていたのが今年の終わりである。
2020年、展示や引っ越しや旅行などやりたいことは沢山あるが、
一番大事なのはどんな状況でも揺るがない自分の城を心に建設することと、それが出来た上で描ける絵を描いていきたい。
城が建設されたらアルコールで失敗しなくなるだろうか…