ピリンちゃん上京5ヶ月目、無事飲んだくれる

アルコールを飲める年齢になってからアルコールほどずっとゆらゆらと私の近くにいてくれる友人も珍しくないのではないかというくらいよく飲まれ飲む仲を継続している。飲んだからといって得られるのは次の日の自己嫌悪とかすかな手の震えだろう。
最近私が酒に飲まれに行く本質は、この世界のすべてが敵に思えるような、空気の中の分子ひとつひとつに刺される感覚にすらなる二日酔い故の孤独なのではないかと気がついてきている。


もちろんこれは例えなので実際にチクチクしているのは心だけだ。
アルコールが入っていれば落ち込んでいる原因はアルコールによるものと断定することができる。
つまり一過性のものと位置づけてしまえるのだ。
案外この効果は大きい。だからこそ普段はある程度破天荒に飲んでいるに過ぎない私も、どうしようもない不満が溜まってくるとアルコールに逃げどん底まで自分を落とし込み、ああアルコールのせいだったのかと次に進むというサイクルへと入り込んで行くのである。


ひとつマシだと思っているのは、数年前バーでアブサンを飲むのにハマっていた頃、主に貧困と素面での自らのコミュニケーションへの自信のなさからストロングのロング缶を一本家で空けてから出かけていたことを思うと今の私は素面でも充分に人とコミュニケーションを取るのは厭わないことである。
アルコールに対人関係の自信を求めてしまうと地獄を見る。
アルコールの力を借りたところで根本的に自分をゆるせないという感情は簡単に塗り変えられる訳ではなく、ジェットコースターのようにアルコールの魔法で無理矢理上がっただけの心の状態はアルコールが抜けていく過程で地面より下に急速で潜り込んでいくことになる。


私が仏教や哲学を考え方の中心に置く様になったのも、大学休学中起きている間ずっと飲んでいないと不安だった時期である。救いを求めていたのだろう。
上がったものは下がる、偏ったものは逆側に偏る。
この時期に仏教でいう中道という、シーソーでいうと誰も乗っていないでどちらにも傾き切らない状態を選ぶことの勇気を知った。
知っただけでその勇気を持ち続けることなど出来ないから今日も飲むだろう。仕方がない。
コンプレックスや呪縛はチャームポイントということにしておいてほしい。

 

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