スピリチュアル希死念慮

どうやら心も風邪を引くときがあるらしい。
大体は前日のアルコールが残っているときなので二日酔いの症状の一部と言ってもいいかもしれない。
心が風邪を引いているということを感じるときは熱い風呂に入り家系ラーメンを食べたくなる。
そこに法則性はない。
しかしラーメンも熱い風呂も酔っ払いツールと言われるものなのでもしかしたら本当にただの二日酔いの症状の一部かもしれない。
ここからは真面目だ。
私は胃腸炎になることがままあるのだが、こういった心の風邪のときは身体は大丈夫なのに心だけその時の感覚に近づいていくのだ。
腸炎ではあまりの体調の不具合に自分の意識が自分の身体の手綱を引っ張っていることを辞めたくなる。それに似た感覚で、あまりの自己への嫌悪で、私が私であるという認識を手放したくなる。
本当に生理的な反応で、身体が痛いのが心が痛いのに置き換わってしまっているだけである。
しばらくすればマシになることはわかってるのに胃腸炎のときのように全身が総毛立って魂がここにあることを拒否する。
そういうときは、普段恐れている死という感覚が非常にマイルドに見えるから不思議である。
太宰治希死念慮の達人なんじゃないかと思うくらいに死への憧れを強く持った人だった。
私はもう「人間失格」を読んだのも10年以上前のことなので忘れてしまったが、もしかして彼の憧れた死はこの感覚なのではないか。
それは平常時死に抱く「すべてを棄てて無になりたい」というイメージとはまったく異なる発想だ。
人間は生まれて死ぬまでは孤独なのだ。それは変えることができない。
だが、人間は宇宙の物質の一部であるもしくは大きなエネルギーの一部である為死んだら「私が私である」という認識が元々分裂する前の大きなエネルギーに帰っていく、そんなイメージだ。一体そんなイメージはどこから来たのだろう。
ただ私は未来に絶望しているわけではないのでちゃんと希死念慮空間から戻ってくる。
その宇宙だかなんだかに帰っていく場所があるのならば、やはり生まれてきて精神の手綱を握って「個人」であるうちはそれを楽しみに来ているのだろうと思える。私は物事に翻弄され、自分が不出来な人間だと嘆くことすらも楽しんでいるらしい。
そんな壮大なことを考えていたのは数日前に酔っ払って道で寝てしまい描き途中の絵の入ったiPadをなくしてしまって流石に落ち込んだからである。