ピリンちゃんの自己開示闘争


言葉を冒涜したくない等と言っては自己開示の暗黒面の領域を文章より絵にまかそうとする思想が正解なのかがわからない。
先週はそれに振り回されたおかげで今私の部屋のパソコンの横のサイドテーブルにはさっきまで大学生たちが宅飲みパーティーでも開いていたかのようなアルミ缶の城が積み上がっている。
これらは先週私が知らず知らずのうちに積み上げてしまったストロングゼロロング缶の残骸である。
もったいない上に美味しくもない、ただアルコールを飲んだことを自慢したいような酒が部屋に積み上がっているのはなんだか嫌だしアルミ缶を潰すのも面倒なのでこれからは黒霧島のパックでも買ってきて麦茶割り生活に戻そうか。

 

しかし「今日は飲んでやる!今日は飲んでやる!!!!今日は!!!!飲んでやる!!!!!」
と意気込みながらコンビニに立ち寄って真っ先にドリンクコーナーへ向かっていくことを私は「帰り道わくわくうきうきルート」と呼んでしまっている為黒霧島を家に常備したところで恐らく飲む酒が増えるだけのことは容易に予想されている。

余談だが帰り道わくわくうきうきルートの最終段階では、私が信仰するしいたけ占いよりも確実に私の10秒後の未来を教えてくれる「ドキドキガッデム占い」が毎度行われている。
なんのことはない、家が見えてきたと同時に家の窓にほんのりと薄暗く蛍光灯が光っているのが見えるか否かだけの話である。
真っ暗だったときは買ってきた酒が3倍くらい美味しくなり歌ったり踊ったりギターを弾いたりしている。
ちなみに9割5分いる。

ガッデムは私がルームシェアをしている縁もゆかりもない人間だが彼がどんな人であるかは過去のブログでも見ていただければ分かることだろうと思う。

 

 

 

 


今日話したいことは私の部屋のアルミ缶の城の話やガッデム占いの話なんかではなくなんで先週そんなに荒んでしまっていたかだ。

 


冗談みたいな文章よりもこの類のことの方が普段考えてる癖にどうしても披露しにくい。
怖いのだ。
今から話すことは完全な嫉妬である。
それも、誰かただ一人に向けた嫉妬ではなく仮想敵に向けた嫉妬のようなものである。

弱い面を簡単に不特定多数の他者に見せることのできる人間のことを私は心底羨ましいと思ってしまう。卑屈極まりない理論だとわかっていてここに書くがそういう人達は私の歪んだレンズには「ネガティブな部分を見せて人に認められないかもしれない自分」を想定しないで済む環境もしくはそれを作りだしてきた魅力を持ってきた人たちに見えるときがある。
こんなことはただ私が自分を正当化したいが為の相手側への批判である。

私はネガティブな部分を垂れ流していて認められなかった自分や、簡単に否定されたり悪意のある人間に振り回されてきた自分が怖くて二度とそんな風になりたくないからやらないという選択肢を取っているだけで、今の自分が仮の姿だと思っているわけではさらさらない。
普通になるべく明るくて楽しい女の子でいられていることを気に入っている。
絵を好きだと応援してくれる人達はちゃんと絵から感情を汲み取ってくれてそれを伝えてくれたりする。

 

それでもアイデンティティを渇望する気持ちなのか序盤に述べたように「簡単な言葉で誰かに認めてもらおうとするなんて言葉への冒涜だ」なんて大義名分めいたただの嫉妬なのか、自分が認められなかったことで誰かに認めてもらえてる人を見ると苦しくて存在意義を見失ってしまいそうになる。

もちろん人の苦しみは私にはわからない。
簡単な不幸自慢めいたものや自己区分の主張で人の気を引けてきた人達の過去に、想像もつかない苦労や努力もあるだろう。
また、物差しも人それぞれである。

タンスに小指をぶつけただけで大騒ぎをしてしまう人が大金持ちで幸せそうな生活を送ってたとしても、タンスに小指をぶつけたらそりゃ痛い。普段怪我をあまりしない人なら尚更痛みを感じるかもしれない。
それがわかる人間でいられないときがある。
状況により不幸の度合いを競おうなんてしたら私はそれこそ私を嫌いになってしまうだろう。

一度、なんでも電話やラインですぐに悩み相談をしてくる女友達を明るめのテンションで励ましたら「それ、ピリンちゃん楽しみながら励ましてない?」と非難されたことがある。
どうして楽しみながら励ましたらいけないのか。他人にどこまで何を求めているのか。
そんな簡単に他人に自分の真意を丸ごとを求められる程気楽に生きてこれた人間が本当に不幸なのか。
本当に本当に羨ましくて悔しかった。

ただ私はそういった人達の批判をしたいわけでは本当になく、たまに先週みたいにどんなに苦労してきてもそれを言ったら嫌われてしまう自分の魅力のなさが自分に正面衝突してくるときがあって、そうなるとその自分の魅力のなさが憎くて憎くて仕方がなくなってしまうのである。

 

 

毒親だとかヤバい教師だとか醜形恐怖だとか低身長だとかADHDだとかアル中だとかそんな欲張りセットみたいな過去の話なんていらないものであって、今の私に繋がっている分全体として肯定出来ることもあっても本来主張すべきものではない。
私は自分を可哀想だと思ってもらいたいわけでもそこにアイデンティティを見出したいわけでもなくただそこにどうしても誰にもゆるしてもらえない自分の存在が映ってしまうことに負けてしまうのだ。
存在を全肯定されたことがないことを勝手に重荷にしてしまっているだけの話だ。

 

今日みたいに書き起こすのは珍しい。
今後も大体のことは絵に潜めさせようと思う。

 

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