土産話と自慢話

最近私の頭の中には思想のこれっぽちも存在していない。
あまりに刹那的に生きている。
たまに自らを振り返らなくてはと思ったところで時間がないと言って時間の使い方を無作為に探して嘆いているだけである。

 

3年前買ってちょっとずつつけている日記帳も、そろそろ続きを書こうと思っては書かずじまいでリュックにずっと入っている。
そもそもこれを書いていたころの日記を読み返すこともあまりないのである。
たまに読み返すと胸が痛くなる。
その頃の苦労が云々、といった理由ではない。

 

私は大体のことは表裏一体で紙一重だと思っているのだがそのころの日記の中の自分というのは非常に表面的な物事によって自分を見出そうという意識の強い人間に見えた。

別に自分にしか見せないものなのだから表面的な部分の喜びを強く日記に記していてもいいはずであるが、どうにも自分には納得がいかなかった。

 

たまにセーブポイントを作ってあのときこれをしてこのときあれをしたなどを記録しておかないと、私のように普段から呆けていて普段から深夜徘徊ばかりしている人間は数十年後、もしくは数年後でも若年性のボケが来たところで周りにはまったく気づいてもらえないと思う。
私自身、どんなに近くにいる人間でも突然なんらかの原因で変わってしまったときその変貌を包み込んで見れるかと言われると非常に自信のないところがあるのだから
こんな天涯孤独に近いような人間が突然ボケたところで元の私とボケてる私を切り離し、元の私を信じようと出来る人間が一人でもいれば人生大成功だったと思えるくらいである。

 

 

少し話が逸れてしまったので戻すとしよう。
人間も物事も表裏一体で表面的な部分が強ければその裏にひっそりと張り付いている影の部分も濃い。
私の過去の日記に書いてある文章は、非常に明るくて形として将来それを読む自分が喜ぶに違いないと丁寧に綺麗に日常を切り取りラッピングしてあった。
だからこそ、いくら数年の年月が経ったといえ私自身を騙せるわけがないではないかとその頃の自分をなじりたくて仕方がなくなる。

 

身の回りにあった嬉しい出来事を未来の自分に膨らませて自慢してプレゼントにしてあげたい気持ちは時間が経ってしまえば他人の自慢話を聞くほどくだらないものに感じるもので、それさえも飛び越えて懐かしいと思える日が来るのであれば私はその馬鹿げた自己肯定の日記を書き続けてもいいのかもしれない、と考えあぐねている。

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