深夜の安穏と日々への滑落

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ぐんにゃりとした痛みのある頭を無理やり持ち上げ、左目の付近にもぼんやりとした違和感があるのをなるべく気にしないようにしながらのそりと部屋を出る。

部屋に食料の蓄えをあまり置いておかないのは外に出る理由がなくなることを避けるためだ、とのたまっておきながら最近のもっぱらのお気に入りは冷蔵庫に放り込んである「ちょっと高級なバター」を小腹が空いたときに齧ることである。無論私がものぐさだからというわけではない、これがバターの一番美味しい食べ方なのだ。

さりとて今日のところは24時間もほぼ横になって創作はおろか何も益のあることを行っていないのだから、少しばかりは外に出なければならない。一番近くのセブンイレブンブリトーを買った。

人間というものは人によって程度は違いつつも内に言葉を飼っているものだが、この、セブンイレブンで温めてもらったブリトーを齧るまで私の頭の中にはキチンと独立するタイプの言葉は表出していなかった。こんな風にまともに文を書いているのは本当に久しぶりなのである。

これから、トレーニングの為にもなるべく毎日書いていくことにしてみよう。

 


ところで「こんな風に誰もいない道で深夜にコンビニブリトーを齧っているときだけ、日々の鬱屈から解放されたような気がする」という太宰治が見たら現代の大人の文章力たるもののエモーショナルに踊らされた末の自己陶酔すらしきれていない根本的知性の拙さに嘆き暮れるであろう駄文が、私が久しぶりに発した心の声である。

 


これには訳があって、私はこの季節の夜の匂いが好きなのだ。座れる窓辺が部屋にあるならば一日中窓辺に座っていたいくらいに好きだ。だから人がいない道で少しマスクを外したことによってふわっと感じた季節の匂いによる開放感を、ほぼニート状態で視野が狭くなりつつある私は無意識に主語を大きくしてまるで日々が相応に鬱屈としているものであるかのように一人夜の道で演出してしまったのだろう。

 


そもそも「日々の鬱屈」とはなんなのか。私の日々はわりかし鬱屈としていないのだ。私はどうして生活のベースを憂鬱なものとして捉えてしまうのであろうか。この、生活は憂鬱なものであるという固定観念によって日々の煌めきは大きく欠損する。

 


たしかに私は今、求職中の身分であるが運良く貯金が少しだけあるがためにほんの少し遊んで暮らしても死にはしない。それに、今私が真面目に仕事を探そうと出来ているのはやっと精神面が整って未来に目を向けることが出来る様になったり、こうでないと人に否定される・馬鹿にされるという脅迫観念から解放されたことによる。今の私は今までの人生で一番前向きな局面にいるのだ。

週に2日は、それなりに長い付き合いになってきた恋人といろんな美味しいごはんを作ったり散歩をしたり、散歩ついでに私の趣味である銭湯通いに一緒に付き合ってもらったり、お腹いっぱいなくらいの幸せをまるで当たり前のように享受している。

残りの5日はたまに声をかけてもらって近所の友達と何人かで遊んだり、大学時代から仲のいい親友と遠距離ながらにも電話やゲームの配信で盛り上がったり、大学のサークルで同期だった友人たちや半年だけ通ったデザイン学校での友達とも未だにダラダラと喋ったり、就活のアドバイスを貰えたりして、こんな日々は幸せそのものである。

誰とも交流のない日でも、思いつきでアニメを流し見しながら数時間かけて靴を磨いてみたり、晴れた日に歩いたことのない駅を目指して散歩をしてみたり、よくやるのは安いカフェで絵を描きすすめたりポートフォリオ作りを少しでもと進めることである。がんばった日にはスーパーで酒を買って帰る。

私は酒を飲むときはつまみはそう多くいらないタイプだ。明太子とご飯があれば最高だ、あとはフライドポテトに塩と味の素をバサバサ振る、というパターンもある。

 


実りのある日々というには程遠いかもしれないがそれなりに人間らしく幸せな日々を送ることができているこの期間は、言うなれば鬱屈としたウンタラカンタラというよりは私の人生に突如舞い降りたほんの少しのご褒美ということが出来るだろう。

他にも色々あるだろうという人もいる前提で私は、人生を豊かにする四大要素は「友達・恋人・仕事・趣味」と思っている。普通だ、ど真ん中に普通だ。何も風変わりなことは求めていない。だからこそ普通が一つも手に入らない自分に長いことひどい欠損を感じて生きてきたのだが、何を隠そう今はこの4つのうち3つがほぼ満点という極めて珍しい状態なのである。

私の人生を遡るとまず幼少期にはこの4つのうちのすべてを持たない状態であった。

そこにはあらゆるものに対する「好き」の概念がほぼ存在しなかったのだから、まさに修羅の世界で生きてきたと言っても過言ではない。四面楚歌とはまさにこのことと言えるような長い青春時代を這いつくばって進み、18の春に大学に入ってからまず「友達」を獲得することができるようになった。

今まで自分のことを人格破綻者だと思い込んできたため、すんなりと他人と交流が出来るようになったことに異和さえ感じた。

それから、恋愛もしたが私の渇望してきたような愛情を得られることはなかったし趣味もやりたいこともなく年月を経てアル中化した。

過去の日記にもおそらく書いたかもしれないがアル中化した末にお金も無くなって深夜のマクドナルドで絵を描くのが癖になり、そこに救いを求めはじめたことにより「趣味」が生まれた。

「仕事」は少し特殊である。私は今まで数々のアルバイトをしてきたことがあり、その数々に挫折感とこの社会で私の生きることが許される席がまた減った事実に苦しめられてきたが、一度だけ働いていて本気で楽しいと思うことができた2年間がある。

それは昼に児童館で働きつつ夜に非行少女の施設で茶を飲みながら非行少女と喋ったりなんかをする仕事を掛け持ちでやっていたときで、そこには確かな充足感があった。

それを辞めて東京にきて2年が過ぎ、そのとき感じた充足感を見失って「私には社会で役立つ術などない」という思考に思い至ってしまいがちではあるが、たしかにそこには仕事として人に喜ばれ、満たされる眩しさが存在した。

恋人はそれよりも後で、きっとこの後にまだ日記を書き続けることができれば追々語っていくことになるだろうがまあ先に述べた様な安定した幸福を与えてくれる人というのは家庭環境に恵まれなかった私には、本当に、ずっとずっと欲しかった大切な家族のような存在であって、友達や仕事が出来たとき同様、当たり前に自身に優しさや親しみの情念が向けられることに眩しくて目がくらむようだ。

この日々があまりに眩しすぎて、しばらくの間言語化を出来なかったのかもしれない。影よりも光の方が長くしっかりと見つめるのは難しい。目が焼けてしまって二度と光を見ることが出来なくなるかもしれない。

 

そもそも私は、厚顔無恥な人間の半ば押し付けのように発した「それはちがうだろ」というよな説のそれはちがうだろ部分を延々ともやもや言語化して考えてしまうよくない性分があるがためにブリトーでくだらない詩めいたものを連想してしまったことに対する喝として「それは違うだろ」と内なら声が幸福について論じる機会を見つけてくれたのだろう。

そう思うときっかけを与えてくれたブリトーの一句には感謝である。


これらの、人生で間違いなく自分の力で獲得してきたキラキラと輝く生命のかけらを無視してまでも、エモーショナルだかなんだかと深夜のブリトーよりも鬱々としていることにしてしまった私の日々の反面である、普段目に入りやすい要素の話はまた明日書けたら書こうと思う。

 

 

 

 

 

 

アルコール鬱になりすぎて人にやさしくなった話

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どうしようもない話であるが私は無職がたたると、無職の酒飲みへと簡易に形態変化を遂げてしまう。

まるで働いているときはあまり飲んでいないという口ぶりであるが、事実働いているときは絵を描く時間が惜しいので酒は飲むと決めた日しか飲まない。もはや自分でも衝撃の事実である。

 

4.5年前は酔っていないと人と喋ってもまともなことを言えないと思って飲んでいたが今は誰と喋っているときの自分もそう変わらないので素面のときの自分の方が好きである。

昔は「人になるため」に飲んでいた酒は「脳を赤ちゃんにするため」という目的に変わった。

もっとも、「赤ちゃん」という時代が本当に状態的に快適であったかを私は疑問視しているため、私が目指しているのは「妄想上のアルコール赤ちゃん」に過ぎないだろう。

 

しばしばアルコール赤ちゃんになって失敗をする私であるが、昨年は特に酷かったので本当に人に多大な迷惑をかけ、あのアルコールが抜けていくときの二日酔い特有の自責の念も相まって何度か本気で練炭を焚こうと思案した。

 

それはそれで辛く悲しく、またどう考えても自業自得な思い出であるがついにたった一つだけ怪我の巧妙的なものを発見するに至ったのである。

私は18までの間「私が精神的に強い人間であるから」という言い訳のもと両親から厳しい折檻を受けてきたことによるコンプレックスで、自分が強いとされることが「自分という人間に興味を抱ける魅力がない」という意味に聴こえてしまうという非常に厄介な被害妄想を抱えている。この被害妄想故に「私なんかが弱い部分を見せたら今度こそ誰も自分なんかに興味を持たないに決まってる」という卑屈極まりない心の中の言葉で日々自分の首を絞めている。

 

その卑屈に歪んだレンズは他人にも作用し、弱さを上手に見せることの出来る人間や精神病を告白する人間を、まるで「弱さをふりかざす怪物」のように捉え勝手に自分の居場所が奪われていくように感じていた。

でもこれは、人の心の強度や状態が一律であることを前提にした自分の物差しでしか人を測る気のない判断だったのだ。

 

前述した通り二日酔いは身体だけじゃなく気分を根こそぎ持っていく。これは前日やらかしていてもやらかしていなくても同じである。

上がりきったテンションを回収するように精神は地の底まで落ちていき、願うならばこのまま動かない身体と下がり続け低いところで蠢き続ける精神を離脱させて楽にできないだろうか、と考えながら無駄に部屋で焚き続けている香の煙が上の方で広がって天井を背景に混ざり合っていくのをこんなに目で追えるものなのかというくらい目で追い続ける。

こんなときはもう、思考力もとんでもなく落ちてたりするので「銭湯に行く為にシャワーを浴びよう」という意味のわからない思考を6ループくらいしたりもしているものだ。

 

ふと私はこれがアルコールによる一過性のものであることがわかっているからやり過ごすことが出来るが、この状態がアルコールを飲まなくてもデフォルトな人間もきっとこの世の中には沢山いるのだということに気がついた。

過去に職場にいた人や昔友達だった人が頭をよぎる。もし私が、アルコールなんか飲まなくてもずっとこんな鬱屈として脳と身体のシンクロ率も下がっているような状態が生活の当たり前だったら何も出来てない。

これが毎日だったら自殺を考えるのもわかるし、必死で誰かに助けを求めることも仕方のないことである。現に私は、その状態になった人と対峙したときに自分がどう力になってあげることが出来るかという考えに正解を見出すことができない。

 

弱者の看板を掲げて強者たり得ようとしている、と勝手に認識の根底に刻み込んでしまっていた人は本当に地獄を見ている人間だったりして、弱者のフリをして人に共感してもらいたい、心配してもらいたいなどの旨味を得ようとしていたのは自分自身だったのではないかということが、とてもクリアに見えた気がした。

そしてこんなことを冷静に克明に書き起こせてしまう私は、やっぱりかなしいことに多分人より強くできている人間なのである。

 

 

血迷って3ヶ月間ラジオのパーソナリティをやったときの話

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当然私は別段話術に長けているわけではない。むしろ、会話においては私の酒乱の原因の一つに人と何を話していいかわからない為にとりあえずアルコールで誤魔化したくなってしまうという最悪すぎる理由があるくらいだ。
そんな私に23才の春ごろ、「無償だけど毎週30分地方のラジオのパーソナリティやってみない?」という話がきた。それは当時始めたちょっと変わったバイト先で頼まれた話で、そのバイト先とはネット限定のとある趣味に関する番組を作る会社のADのような仕事であった。
怪しいマンションの一室を事務所として使っていたその部屋では社長と社員一人で仕事を回していて、たまに私のようなアルバイトの女の子がきたりもしていたようだった。


そこでしていた仕事は、主にロケの日に長崎やら福岡やら神戸やら高知…と遠方へついていっては申し訳程度に三脚などをたまにもたされ、出演者とかと喋ったりお小遣いを渡されてお弁当を買って来たり出演者と社長と酒を飲んだり船に乗ってみたり番組に必要な絵を撮るのを眺めていた。三脚をたまに申し訳程度に持たされたりする以外の仕事は殆ど無かったので、私がいなくてもどう考えても仕事は成り立っていた。
私が思うにアレは表向きはADだったが、撮影などで長距離運転をする社長が寂しさを紛らわずためにスピリチュアル話を延々聞いてもらうための話し相手としての仕事だったように思う。
前にもこのブログで私のしてきた変なバイト達を紹介する記事で書いたが、京都にはスピリチュアル話をするおじさんおばさんがやたらと多いと私は思っている。
昼間のカフェにいても東京より沢山胡散臭いネットビジネスの話やらスピ系思想の話が横行している。他力本願思想が根深いのだろうか。


社長も例に漏れずスピリチュアル話が大好きで、全然関係ない話をしていてもなぜかスピリチュアル系の話になってしまう。それも別に石とか壺とかを買わせようとしてる感じではないのである。例えば「この国には表向きの政府を牛耳っている裏の組織がある…」などのフリーメーソンかな?といった感じの話を延々と繰り広げてくるのである。
スピリチュアル系の話をする人はその話をすることで一体心のどこが満たされるのだろうか?
フリーメーソンだか宇宙人だか地底人だか知らないけどいるかいないかについてそんなに重要視したことはない。
しかし「えぇ!!スゴイ!!マジですか…」を乱用しがちな私の相槌は社長のスピ話に拍車をかけ社長の口調を恍惚とさせ、どっから湧いてきたんだか今度はチャクラがどうたらこうたらという話をし始めるのであった…車内はいつもよくそんなに尽きないものだという胡散臭い話で満ちていた。
私は胡散臭い話も案外実は嫌いではない。胡散臭い話の、点と点がどこで繋がって線になるのかが気になって何やかんや面白くて「あれ?もしかして日常で私が不思議に思っていたこれって…?」などといって会話にガソリンをガンガンに注いでは社長のスピ談をよく燃やしていた。
よく考えたら私もスピリチュアルに片足を突っ込みかけていた。


これはいつもの余談で私の個人的な拘りだが、その人の中で一応点と点が線として繋がっている話はどんなに変でも面白く感じたり興味を持てたりする。一方で自分をよく見せようとするというのが会話の目的に来てしまうばかりに点と点をきちんと結ぶ気などさらさらなく一貫性のないコロコロと立場の変わる御都合主義のような話は二度と聴きたくない。人間一週目だと思っている。


そんなバイト先で社長に「空き枠あるんだけどラジオやってみない?」と言われ、暇だったのでノリでやってみたのがその3ヶ月間であった。
当時はピリンザラザという名前もなかったので今多分私の本名を検索しても普通に出てきてしまう可能性があるまあまあハイレベルな黒歴史である。
まあ流石に音源は残っていないだろう。
それはそのマンションの一室の中にある小さな録音スタジオで行われた。
ラジオを録るときは社長ではなくたった一人の社員が担当していた。
社員は100人いたら50人くらいはいそうな小さい小太りの眼鏡で、最近オタク系婚活によって結婚をしたという。彼の机やDJブースには「女のオトし方」のようなタイトルの本が散見された。


ラジオで何を話していいかわからなかった私は、その当時好きだった12個上の男の人が二人きりの時はぬいぐるみでワントーン高い声で話しかけてきたりレディーガガの香を焚いたりしていた話だとかでも全然何考えてるかわかんないし気がついたら自分が話したいことなんて何も話せなくてある日素直になりたくてその人の家に行く前に馬鹿みたいに酒を飲んでから行ったらフラれた話とかをした。
他には大学時代の女友達の何人かがメンヘラビッチになってしまったり、女の子の「いわゆる彼氏の愚痴」を深夜に電話がかかって来ようと突然泣きだそうと辛抱強く「そうだね!相手が悪い!」と相槌を打っていたら大体女の子に「私の彼氏の何が悪いのよ!!」と怒られ連絡が取れなくなる現象などについて憤りを込めながら喋ったりなどもしていた。
当時はそういった世界が私の中心だったんだな、と思うと今から考えるとなんだかちょっと面白い。


今思うと週末の夕方に車の中などでちょっと緊張しているのが丸出しの素人の浮ついた声で語られるヘビーな恋愛談なんて聴かされていたとある地方の人たちがあまりに不憫である。
3ヶ月で終わったのも納得だ。
流石に30分をフリートークで消化するのは素人には心もとないので、妙に生々しいフリートークは最後の5分とか10分だけで、他は件の社員と相談しながら来ていない質問を自分で考えて自分で答えたり好きな本や曲を紹介したりなどした。


当時くらいまでは本当に自信がなく、周りによくナメられたことを言われていた。
最近結婚したというオタクの社員にも当たり前のように「オタクっぽい」とか「なんか別にセクハラじゃないんだけど誰にでもオトせそうに見えるんだよね〜」とか言われたものだ。どの口が言うか、と思いながらそれを受け入れてしまっている自分がいた。
その当時はまだ他人が言うことが自己評価の全てだった。

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当時聴いた自分のラジオは、あまりにも自分の声や喋り方が気持ち悪くて受け入れられなかった。
2回くらい聴いてそれ以降はオンエアは聴くのをやめた。
恥ずかしくてほとんど誰にも『私ラジオで喋ってるで』とは教えられなかった。

今年の正月くらいに、あまりにも暇だったので深夜外を酒を飲みながらただただスマホのカメラに向かって喋ってみた。一人ユーチューバーごっこである。
当時のノリでおっかなびっくりその自分が喋ってる映像を見て聴いてみた。が、全然嫌じゃなかった。
私がなんらかの変化で喋り方が良くなったのか自分を許せるようになったのかは謎であるが全く気持ち悪くなかった。
興に乗った私は1時間半もベラベラと喋っていた。それはまあ寂しさとアルコールのなせる技だったり、誰も見ていないからこそ成立するものでもある。

 

当時のあの、人に聴かれているからといって気を張ってしまってかえって成り切れずに恥ずかしさが前面に出てしまう現象について考えた。

捨てるものなど何もない人間が恥ずかしがる必要などどこにあるか。

 


あれが今の私だっらあのチャンスをどう活かすのだろうか、友達やファンや職場の人には『私喋ってるよ』と言えるだろうかと考えていたら、また来てもいない手紙を読みあげる自分を想像して笑ってしまった。
恥ずかしくない自分なんてどこにいるんだ、このブログだって更新ボタンを押してしまった時点で「恥ずかしい」に分類される可能性を持つんだ。

 

悩みすぎて寺修行をしたときの話-後編-

f:id:pirinzaraza:20200123091911p:imageしかし、試練は目の前の席に存在していた。
私の目の前の席に座っていたおっさんは常に笑いを堪えているような顔をしていた。そして突如声を上げて笑い始めた。隣にいた坊さんが叱責をしても、その狂気のような笑いは止まらなかった。
目の前のおっさんの狂気に目を奪われていた私は久しぶりにした正座で足が痺れ切っていることに気づかず、食事を終えて退場するときに盛大にへなへなと床に崩れ落ちてしまった。生まれたての子鹿っていう表現はこういう状態を表すのだろうな、と思った。
私はおっさんの狂気に戦々恐々と自分のせいな可能性を探っていたが次の日の坐禅時におっさんの笑い声が再び上がり、それに反応した足の皮を食べる菅田将暉も笑いながらウォウウォウと何か言い始めた挙句坊さんに連れられてどこかへ消えたのでどうやら私のせいではないらしい。
おそらく静かな空気で笑ってしまうタイプの人なのだろう。
菅田将暉似の少年に関してはイケメンなばかりに残念なかぎりである。
そうした惨状を傍目に、あの派手なツインテールの婆さんは部屋の角に用意された椅子に座りながらニコニコと揺れていた。
婆さんの周りにだけ花が咲いていた。

 


寺には年齢性別出身地かなり入り混じった人達が修行しに来ていたが、イケメンが多かったのも意外だった。おそらく高校生で長期修行をさせられているという茶髪の青年もクローズという映画に出てきそうなイケメンだったしめちゃくちゃ真面目に頭も刈り込んで修行しに来ている模範坊主のような青年も海老蔵のような美青年だった。


一人だけ私と年の変わらない女の子で頭を刈り込んで坊さんとして修行をしている身だという子もいた。その子とは仲良くなってデビ夫人(ツインテールの婆さん)の部屋で3人で休憩時間に過去のことなどを話したりした。

数ヶ月前に思い切って頭全部刈ってスマホも解約してここにきたんだ、と話す彼女の決断力にパンクロックを感じて憧れた。
その子には寺から帰ってきて一度手紙を送ったが、返ってくることはなかった。元気にしているだろうか。
そういや初日にドン引きしたにも関わらず、私はなんやかんやデビ夫人の明るさと朗らかさが大好きになってしまい、彼女とも修行中よく話をしたのだ。
最後の日、もう数日残るというデビ夫人より先に帰る私に、彼女は煩悩の塊みたいな大きな荷物の中から良い香りのする小さな経典を取り出して渡してくれた。今も大切に取ってある。


夕食後は順番にお風呂に入ったあと茶菓子を食べながら談話をする時間もあり、それを終えると就寝時間は21時とかなり早かった。
私はかなりの夜型であるので、一度だけコテージをこっそり抜け出して近辺を散歩した。田舎故にふんわりと光っている蛍を何匹か見つけながら見晴らしのいい場所に出ると、遠くに見える京都市内の光と真っ暗な空にきらきらと光る星たちが広がっていた。
あぁ、いい場所だなと思った。夜景は隣にいる誰かにアピールするロマンスの為の舞台装置なんかじゃなくて、ただ「綺麗」でただ今そこにある光だった。

 


翌朝、就寝後に電話をしながら歩いていたという青年が強制的に寺から退場させられているのを目の当たりにしてひやっとしたのはいうまでもない。
坐禅中の問題児二人は坊さんに少々叱られていた程度で、修行を辞めるという程のことにはなっていなかったが修行を途中で辞めてしまう人はちょくちょくいるらしかった。
デビ夫人と同室にいたおばさんも、ある朝突然姿を消してしまったらしく騒然となっていた。
修行が辛かったのかデビ夫人との生活が合わなかったのかは絶妙に判断し難いところである。

 


朝は5時に起きて太陽拳をしたあとに読経をし、掃除をしてやっと7時半頃に朝食であった。
朝は意外にも眠気より空腹の方が辛く、7時半という時間を「遅い」と感じていたのは人生で後にも先にもこの時期しかないんじゃないかと思う。
朝食で件の和尚お手製の粥に舌鼓を打ったあとはお務めがある。農作業や昼ごはんの準備である。
昼と夜は近所のおばあちゃんが作りに来てくれていて、二日目のお務めのときにやはり私のような吸血鬼生活を送っていた人間が農作業で日光の下汗をかくのは辛すぎると深く思い至ったため3日目はおばあちゃんと室内でのんびりおしゃべりしながら食事を作った。
おばあちゃんは亭主とはお見合い結婚で知り合ったから恋愛もクソもないけど愛情は育てるもんよォというようなことを言っていた。刺激なんてなくても毎日こうやってここに来たり誰かのために何かをしたりしてると楽しいんだよ、というようなことも言っていた。
その時はどっちもあまりピンとこなかったが、今になって長く生きてきた人間の言葉は流石だなあとしみじみと思う。
状況に縛られがちな私は寺の厨房で真昼間から料理の支度をしながらアル中の女が婆さんの人生観を聞いているというドラマティックな形式の方に酔っていた。いかにもしょうもない。


私はこの寺修行の間、ほとんど自発的な行動をしていない。スケジュールに合わせて淡々とそこにいただけだ。今までの人生ではスケジュールに合わせることが苦痛で仕方なかった。「今」という空間に対し、過ぎ去って欲しいというピリピリとしたいたたまれなさばかりを感じていた。時間は過ぎ去ってくれれば過ぎ去ってくれるほど有り難いものだった。お寺にいる間は時間を消費しなくてはいけないものと捉えなくてもよかった。何もしなくても何も面白くなくても自分がここにいてもいいと思えたのは初めてだったかもしれない。


あっという間に3泊4日の旅は終了し、同じ日にきたデビ夫人以外のメンバーは皆最後に写経をして終わったものから部屋を出た。
私は一番遅く、なかなか手こずりながら写経を終えて部屋を出て寺の鳥居をくぐると、目の前に車が現れた。
「よ!待ってたよ!精進料理しか食べれなかったから回転寿司でもよって帰ろうぜ!」と同スケジュールで行動をしていた男子二人が窓から顔を出して言った。
一人で登った山を帰りは車でみんなと降りれるなんて思ってもなかった。
3人で寺修行の苦労を労いながらライングループを作って「一年後に飲み会でもしてお互いがどうなってるか報告しよう」なんて言って別れた。

 


それから一年後、ふと思い立って「みんなどうしてる?」と連絡してみた。
寺にいるとき二人のうちの一人は世界の国々を渡り歩いていたが挫折してしまって自分がどうしたいのかを考え直すために寺に来たがやっぱり前向きに旅を続けたい、と目を輝かせていたのでまた海外に戻ったのか聞きたかった。
「やっぱりあれからずっと国内にいるんだ」とだけ返事がきた。
飲み会は開かれなかった。

 

私はあれから4年半の間に自分を好きでいてもいい理由を見つけて、この世界に好きを少しずつ見つけれるようになった。

皆明るく振舞っていても寺に理由なくくる人間なんていない。

あのときそれぞれの思いがあって、偶然に寺で出会った彼らは今どんな風に生きているのだろうか。

またどこかで逢えたらいいなと思ってしまうのは私の若さゆえの傲慢な憐憫だろうか。

 

悩みすぎて寺修行をしたときの話 -前編-

f:id:pirinzaraza:20200123091755j:imageそれは21歳の6月頃のことなのでおよそ今から4年半前のことである。
今このことを書きたくなったのはあの頃と状況が少し似ているからだろうか。


私は部屋でボンヤリとしていた。
前の年に後期分の単位が足りずに留年が確定した大学にはそもそもあまり興味がなく、大学を出た後に自分に出来る仕事やしたいことも特になかった。
何のために奨学金を借りてまで学校に行き毎日アルバイトをして生活費を捻出してまで通っていたのかは未だに私自身には説明できない。250万超の借金の使い道は私が望んだことではなく親が体裁の為に手に入れたい形に暴力的に捧げられてしまった。
250万円分のお金を稼ぐのに時給1000円弱のバイトは何時間やればいいのだろうか。

 


目の前にはただ膨大な時間があるのみで、脳みその中の感動や情緒の領域は幼い頃よりの日々の積み重ねにより死滅していた。
今考えるとあんなすべてが灰色に染まってしまうような認識の世界を何年も生きていたのはもはや人間じゃない、と思う。
しかし人間じゃない私はどうしても人間の感じるこの世の幸福を知ってみたかったらしく、何もない自分を誰かにどうしても肯定して欲しくて一丁前に人を好きになって当たり前に傷ついては自分の出来ないことをまた一つ積み上げたのだった。
仕事を選ぶ基準も「いかに自分が他者に傷つけられずに済むか」であったため、マイナス方向に感情の針が傾くことはあってもプラス方向に傾いてくれる条件は非常に限られていた。
こんな楽しいことのないままじゃ死ねないから、と必死に生きてみた結果自分という生き物が人並みになる為に出来ることの少なさが目の前に突きつけられたようだった。
自信のなさが空気に重みを与えて私を起き上がらせてくれない。

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もうこうなってしまっては本当に何をしても楽しくなかった。アルコールは今より沢山飲んでいたが楽しくなることすらなかった。目の前にあるアルコールにただ溺れることによって、ほんのいっとき自分から離れるためだけに飲んでいたようだ。記憶が飛んでいた方がありがたかった。アルコールを飲んで我を失ったまま、もしくは睡眠時に見る夢の中でそのまま死んでしまいたかった。
日常はそれなりに刺激的であったはずだが、それは文章に書くのには困らない類のエピソード的な刺激であって私自身が楽しいと感じていなければ何の意味もないことだった。

 


そんな日々の中で私はいつしか当時爆発的に流行っていたスピリチュアルサイトを巡回し始めた。「願えば叶う」というお手軽スピリチュアルのサイトを見ては安心しようとしていたのだ。
しかし生活にも困っているような状況なのに願いがそもそも好きな人を振り向かせたいくらいしかなかったのだ。私の本質は本当にただ他人に肯定して欲しいというそれだけだったらしい。
点と点が決して線にはならないような自己陶酔の文章の羅列にいつしか胡散臭さを感じ、辟易し始めた。
例えば「モテたい」と願ってモテたところで一時的な喜び以上に得られるものはあるだろうか、好みの見た目の人間と遊園地や水族館に行けたとしてそれは本当に幸せで満たされることなのだろうか?今の自分が無理矢理肯定されたとして、今の自分を肯定する人間がいて私はそこでまたスカスカな自分を突きつけられるだけで自分自身のことも相手のことも好きにはなれない。

 


それならば根本的解決を図るよりないだろう、先人達に倣うのだ…と思いついた私は突如寺修行に行くことを決意した。
調べてみたらまあまあ近い距離に3泊4日で1万円食事付きという、良心的かつ旅行感覚で行ける寺があったのを発見し、ホームページに載っていた寺修行の1日のスケジュールを見て「この堕落しきった生活リズムを修正するきっかけになるかもしれない」とも思った。
それにしても少し調べてみれば電車で20分ちょっとのところにそれ用の寺があるなんてさすが京都である。

 


行きはとにかく暑かった。電車で碁盤の目状の市内を出てしまうとトトロに出てくるような緑ばかりの風景で、少し移動するだけでこんなに違うものなのかとびっくりしたのを覚えている。
民家すらないような田舎感漂う駅で降りて何故突然修行前に美意識が働いたのかスムージーのようなものを飲みながら軽い山道を上がり、その寺に辿り着いた。
同じスケジュールで修行をする人は私の他に4人いて基本は彼らと行動が一緒になるらしかった。
私は寺修行なんてのは人生に行き詰まったどよんとした人しかこないものかと思っていたので横にいたツインテールの派手な婆さんが「あたくし食事はブイヨンが入ったものは食べれないんですの…」と語り始め、最終的に「あたくし脚が痛くなってしまうので坐禅は出来ませんの。椅子ご用意していただけます?」などと坊さんに注文をつけていたのには寺に来て早々衝撃を受けた。
まあ、婆さんはかなりの変わり種なので坊さんも衝撃を受けていたであろう。

 


荷物を持って部屋へ案内されたのだが、部屋は寺の奥に何個か洋風のコテージがあり、コテージの中には二段ベッドが二個と鏡台があったりしてキャンプ学習のようだった。
私は前日にやってきたというカナダ人の女子と相部屋だった。
寺修行と言っても昼過ぎは自由時間がたっぷりあって、図書用のコテージがあったり早起きの分の睡眠を埋めたり修行仲間とおしゃべりをしたり好きなように使ってよかった。
やがて夕刻頃より坐禅が始まった。脚を組み、お馴染みのポーズで15分×3セット程度だったか薄暗い部屋でお経を上げてただ呼吸に集中する。
お香の匂いと誰かの読み上げるお経の声と部屋の薄暗さが心地よく、工場でひたすらベルトコンベアに乗って流れてくる袋にシールを貼るバイトに比べたら1000倍くらいの安心を感じれた。
しかし煩悩の塊のような私は当時好きだった人のことばかりを考えていて1ミリたりとも無にもなれなければ呼吸に集中することもしていなかった。
ただ心地よさを感じながら好きな人のことを考えていただけである。
けれど久しぶりに楽しかった。
坐禅と食事までの休憩時間に同じ日に寺に来た年の近い男子二人と話してみたのだが、そちらは坐禅の体勢が兎に角きつかったのと目の前にいた菅田将暉似の少年が坐禅中におもむろに足の皮をめくって食べ始めたので非常に戸惑ったというようなことを言っていた。
寺修行にはどんよりとした人というより珍妙な人の方が集まるのだろうか。
二人も寺よりはその辺の居酒屋にいそうな爽やかな兄ちゃんだった。


夕食はかなり本格的な禅の修行であった。
4日間通して使うお椀三つと箸を持って整列し、順番に席に着く。
流れてくるおかずを自分の食べれる分だけ大、中、小のお椀に取り分ける。
全員で食事前のお経を唱えたあと、箸と食器のぶつかる音にも細心の注意を払いながら猛スピードで食べなくてはならない。誰も待ってはくれない。食事中は常に正座で無言である。
精進料理に味を求めてはいけない、ということを聞くが私がこの寺で食べた精進料理はどれも格別に美味しかった。普段ジャンクフードが大好きでファミチキばかり食べているのにこんなに美味しく野菜を食べれるものなのかと感激したほどであった。
中でも美味しかったのは朝に食べる粥であった。

白ごまを載せて付け合わせのかぼちゃを甘く煮たものと食べると絶品であった。

後にその粥は和尚さんが毎朝誰よりも早く起きて皆の分を作ってくれてるというお手製お粥だったと聞き心が温まったのを覚えている。
禅の修行らしく小さいお椀に一枚だけ沢庵を残しておき、白湯を少し注いで三つのお椀を沢庵で洗い、最後に湯と沢庵も胃に収めてしまうというのも楽しかった。


しかし、試練は目の前の席に存在していた。

ピリンザラザの睡眠不足闘争

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どうして睡眠不足になるとこんなにも脚が気怠くなるのか。

理由や解決方法などはどうでもいいのだ。

ただ誰もこのリアルで辛すぎる闘いについて語っていないがためにこのレベルの苦しみと絶望を体験しがちなのは私だけなのか?と不安になったから書き残しておこうと思う。

 


私は現在都内のなかなかディープなライブハウス兼クラブで働いている。

大体は深夜のバーカウンターで酒を作ったりしながらその日その時のDJに合わせてユラユラしてたり、暇だったら絵を描いたり新しいカクテルを作ってみたりなどしており仕事自体は充実していて楽しいものである。

また、人間関係もとても良好である。

私はいつも東京にきてから思うのだが、学校だとか仕事だとか酒飲み仲間だとか日常的に関わることになる人は本当にいい人しかいない。

誰かを簡単に貶めようとしたりだとか、虚栄心のために後先考えない人間関係を構築したりだとかそういったものが一切なく、みな本当にわかりやすく合理的で壁もなく「罪を憎んで人を憎まず」といった精神で接してくれる。

そのためにかなりのポンコツでアル中の私でも簡単にアウトラインの向こう側として雑に扱っていい人間とはされず、一緒にいて楽しさを共有しようとしてくれたりだとか必要なことはちゃんと伝えてくれたりだとかシンプルに気にかけてくれてたりして、なんだかいつもどこでも大事に可愛がってもらえて毎日感謝ばかりである。

(これに甘んじてアルコールに溺れちゃいけないな、とは思っている)

 

 

 

そんなありがたい職場にちょっと長めの正月休みという廃人期間を経て復帰した私は、廃人生活で狂いきった睡眠時間を活かしてオールナイトのシフトでも横で眠りこけそうになってる先輩を笑いながら飄々と元気に働いていた。

朝7時まで働いたとしても元々寝る時間が10時〜夕方の18時までだったりしてもはや「5時に寝れたら早い」という認識のとち狂った生活リズムになっていたおかげで変に余裕があったのだ。

しかし、シフトは夜だけ入るわけではないのである…!休日の昼間のイベントが入ったりすると正午には出勤してそこから10時間近く働く。

それが、今日という試練の1日だったー。

 

前日もオールナイトで働いていた私は5時半には家に帰ってきたのだが、いかんせん普段の睡眠時間が狂ってしまっている為に眠りにつくことが出来なかった。

また、廃人期間に頭を空っぽにするが如く無駄情報のネットサーフィンをしたり毎日ちょっとずつ読み進められる無料漫画を身漁る習慣を身につけてしまったが為、寝られないのも大して苦ではなくそう深刻に考えず「まあいけるやろ」と睡眠ゼロの状態で出勤してしまったのである。

 


なんせ寝るしかやることのなかった廃人期間を逆にコンプレックスに思っていたのも相まって「寝る時間がないほど忙しい」ということに少し興奮気味でもあった。

私は寝不足の時にはこういうのを飲むもんだ、とモンスターを買った。寝不足でバーカンに入っているとなったらタバコなんかも吸っていたら格好いいだろうと普段吸わないのにラクダさんの書いてある葉巻みたいな安いタバコも買った。気分は少し遠足前みたいである。

そうなのだ、睡眠不足のいいところはランナーズハイみたいな現象が起きて眠さを乗り越えたら勝手に脳がキマッてきたりするところでもある…!!

 


しかし、キマッていたのは買い物をしてバーを開ける準備をしながらコーヒーとモンスターを交互にガブ飲みして、ラクダさんのタバコを一服してみたときまでであった。

イベントが始まってしばらくして、重たさとはまた違う、体感で例えるなら痒みのような眠気に襲われた。全身が怠く、手を肩より上に上げるのが心底嫌なのでせっかく格好つけのために買ったタバコも最早放置されていた。

 


そして、悪の大魔王「脚むくみマン」が現れた…。

私はこのときまですっかり、「睡眠不足だと脚が半端なく浮腫む」というどうにもならない事実を忘れていたのだ。

脚むくみマンは最初ふくらはぎに現れ、私のふくらはぎを鉄みたいに重くした。

その後彼はふくらはぎを温床にしながら膝・太もも・腰へと上に伸びる勢力、下へ伸びる勢力と分散して私の身体の主に下半身における全体的な筋肉を駆逐していった。

 

バーカウンターに立ち始めてから3時間…限界が訪れた。

脚むくみマンの勢力がついに足の裏に到達したのである。


私の足の裏の全血液が助けを求めていた。

痛みとも痒みともつかぬ、私の足の裏は常にカイジのザワ…ザワ…という環境音が聴こえてきそうなくらいざわついていた。

ペリカ払えばこの苦痛から解放されるんだ!

足の裏を中心に寝不足は私の全神経を研ぎ澄ました。もはやエスポワール号でジャンケン大会をしたのちビル間綱渡りをしても勝ち残れるんじゃないかというくらいに私の足に繋がっている脳の神経細胞は完全にパラサイトしていた。

 


BLEACHでみたことがある。

強制的に神経を研ぎ澄ませ、飛んできたボールなどを異様にゆっくりに感じさせる薬を。

その作用を何千倍にもすることによって相手の動きを緩慢にさせ、簡単に勝つことが出来ると涅マユリが言っていた。

今になって思えば私はやったことがないがアレは別に夢想の類ではなく現実にドラッグを摂取したときに起こる症状と同じなのであって、そしてその症状を私はただ睡眠不足でカフェインをガブ飲みして立ち仕事をしていたというだけで「足の裏」だけ手に入れてしまったのだ。

よく「BAD入っちゃってー」なんていう人がいるがBAD状態はこんな感じなのだろうか。

 

 


昼下がりに行われるイベントは普段のアンダーグラウンド的雰囲気とは真逆で、いわゆるアニメ系のDJイベントであった。

アニメ系のイベントの客はあまり酒を飲まないため、私はカウンターの中で一人、

ひたすらに長すぎる時間を2分に一回は時計を見て自分を鼓舞し、励ましていた。

常々「時間が長すぎる」と感じることを上回る苦痛でこの世に存在するのは胃腸炎くらいだと思う。

そして、恐れていた事態が私の貧弱な臓器と浅はかな判断により発生してしまったー。

まさしく胃腸が壊れたのである。

一睡もせず、インスタントのうどんを適当に食べて家を出てモンスターやらコーヒーやら普段吸わないタバコやらを体内にドッと突っ込んでしまったせいで私の胃腸は音を上げ、数十分に一回トイレに走ることを余儀なくされてしまったのである…!

 


そうして私は大して効いてはくれなかったエナジードリンクならびにコーヒー、気をそらすどころか余計に疲れを煽ったタバコ、音を上げた胃腸、そして筋肉およびに下半身における全神経を駆逐してエスポワール号にしてしまった足のむくみなどの想像を超えた戦犯に悩まされながらも唯一の味方である「耐えれば感覚的にはかなりゆっくりとだが一応過ぎる時間」によって9時間半の労働を乗り越え、家に帰って眠りに着くことができたのであった。

 


もし睡眠不足のときのような症状が平常時だったら私は1分1秒を恨まざるを得ないな、いつも健康でいてくれてありがとうと心底思ったのである。

 

 

 

 

家出少女たちの面倒をみるバイトをしていた頃の話

今日は昨日よりちょっとだけ成長が見られている。17時に起床したからである。
アラームはかけても大概無駄なのであまり寝過ぎないように布団ではなくホットカーペットで眠りにつく作戦を取ったところ、無事空が暗くなるギリギリちょっと前に起床することに成功したのである。
生活リズムが狂い切ってしまった人間にとっては空がまだ明るい頃に目を覚ませると「あ、まだ一日を無駄にしきってはいないのだ」と安心感を得ることができるのだ。
わたしはゆっくりと風呂を沸かし半身浴をし髪を乾かして結んでちゃんとお化粧をして、外に出てもまあいいだろうといった服を着て外に出た。
17時に起きた分の成長である。
堕落した生活を送っていて尚且つ冬だったりすると本当に人に会ってはいけないようなパジャマ+αのもこもこみたいな格好で外に出てしまうのでやる気が削がれやすい。
その点今日の私はかなり優秀なのである。
やはり身だしなみは心を整えるな、一般的に大事とされる習慣には大いに意味があるのだ、と胸に留めておいた。


そういえば私は正月早々暇を持て余した勢いで太宰治の「人間失格」を読んでしまい、まんまと「人間失格」の内容に引っ張られてしまっているのだった。
そもそもそんな小説を正月早々読もうとする人間はもう人間失格に最初から引っ張られているのだ。許しがたい自分をギリギリ擁護したくて読むのだ。


太宰を敵対視し、異常なまでに彼に否定的だったとされる三島由紀夫は「朝ちゃんと起きて運動をしてどうたらこうたら(要するにきちんとした生活習慣を取る)すれば太宰の病気は治ったはずなのに、治そうとしない病人は病人じゃない」というようなことを言っていた。(思い出せる範囲なので記憶違いの部分もあるかも)
まさしくそうなんだよな、本当にそうなんだよなと思いながら生活習慣をまともに戻すことの難しさを思い出す。
もはやまともに朝6時に起きて元気に遊びまわっていた小学生中学生時代が狂気の沙汰に思える。

 


しかし17時に起きたからといって特にまともなことはしていない。
ただ今日もブログを書いているだけである。
何もしていないと思考が変に深まってしまったり些細なことが心の憐憫に触れてしまったりするもので、私は自分が忙しく頑張れているときはその現象を「怠け者じみた貴族の戯れ」と心の中で小馬鹿にしていた。
実際にこんな風にダラダラと意味のない文を書き続けることが出来るのは相当な贅沢であると思っている。

 


東京に引っ越して来る前、昼間は児童館で働きながら夜に週二回ほど深夜に家出少女達の面倒を見るバイトをしていた。
絵描き仲間の紹介で始めたそのバイトは、様々な家庭環境の問題により家にいることが出来なくなった10代の女の子達が自立する為のステップとして身を寄せ合って暮らす、家と寮の中間のようなところだった。
元来寂しがりの私にはそのアットホームさがちょうどよく、いつもリビングでテレビをつけながら絵を描いたりしてなんやかんやとおしゃべりをしたがる少女たちとお菓子を食べたりあったかいお茶を飲んだりしながら過ごすのが好きだった。
好きだった一方で私は年齢も境遇も近い彼女たちに持ってしまったある種の嫉妬に狂いそうになる反面を持っていた。
こんなのは再燃された被害者意識と強い同族嫌悪なのだ。


家庭環境が複雑な少女達は「ふつう」の存在を求めていた。
彼女たちは私に辛さやどうにもならない気持ちを吐露しながら、それを「普通に生きてこれているとされる私」に可哀想だね、がんばったね、と受け止められることを望んでいた。
今なら多少動揺せずに彼女たちの不満をわかるよ、と聞き入れることが出来るかもしれないが、当時の私は再燃された自己の被害者意識に揺るがされていた。

 

 

今更自分語りをしても仕方がないが私自身も家庭環境には相当恵まれなかった方だという思いがあるからこそそんな仕事をしているのに、甘えてんじゃねぇぞと。お前らは私に甘えられていいかもしれないけど、じゃあ、私は誰に甘えればいいんだ!とお金をもらっている立場にもかかわらず一人で自分が一番この世で不幸だと思おうとする沼にハマっていった。
不幸でも一人で生きてきた人間は一人で生きてこれた人間だから大丈夫なのか?
そんなのってあんまりじゃないか?
彼女たちが自分にないものを私に期待するように私も自分にないものを彼女たちに求め、嫉妬の材料にしていた。


似ているだれかに嫉妬して、誰かを否定していいことにすることで自分を守ろうとしていたのかもしれない。


暗澹たる部分は心の一部だけなもので、実際は楽しい部分の方が多かった。
鍵をなくしたのに門限を絶対に守らないで不良とばっか夜までほっつき歩いてる家出少女からの「家に入れてくれ」という電話を心を鬼にして無視し倒して締め出した日もあれば少年院帰りの家出少女のいざこざに巻き込まれ、爆発してバーサーカー状態になった彼女の暴走とリビングから聞こえてくる咆哮にビビりながらキッチンに走り包丁を抜き取って宿直室に猛スピードで走って震えて朝を迎えたこともあり、また夜に勝手に朝ごはんの分のご飯を食べてしまう家出少女との内なる駆け引きがあったり胡散臭いスピリチュアルにハマってしまった家出少女にとっつかまって深夜に2時間半もスピリチュアルDVDを見せられたあげく「真剣に見てない」と怒られた日もあった。


毎度心でブチ切れてはいたが彼女たちの人生の一部に触れるのは本当に面白くて、私は「リビング」と名のつく場所が大好きで、そこに人が集まって意味もなく酒もなくただダラダラとするのが本当に安心した。
仕事でそんな空間を得れるなんて実際にもうリビングに戻ることの出来ない人間には心から充実した瞬間だったのだ。


よし、バイトでもして2020年は仲のいい友人と住んでリビングでダラダラするか!f:id:pirinzaraza:20200109051507j:image