東京で自分を見失っていた私が京都で小学生に与えてもらった愛情を思い出した話

 今日は5月24日金曜日だが私は東京に来る直前、2月25日まで京都の児童館で働いていた。主な仕事は子どもと遊ぶことだ。仕事の最終日や東京に出てきた当初は子ども達との日々のことを思い出してよく泣いていた。
あの頃出逢った子どもたちは間違いなく私の人生で一番はじめに見つけた宝物だ。
宝物が私を無敵にしてくれて東京まで送り出してくれた。その頃の日々に絶望はなかった。
それだけ大切に思っていて、また目に見えない大切な何かを子どもたちは私に与えてくれたのに東京に出てきて一週間もすれば私は東京の刺激と思ったよりも居場所の見つからない焦燥感に打ち負かされてしまい、子どもたちのことなんて頭の片隅に追いやってしまっていた。


 最近始めたライターのバイトで打ち込む駄文が心を蝕みはじめ、いよいよ東京での所在なさが私に突きつけられてきたところでなんとなく私の職場での最終日の日に撮った動画を開いてみた。
最後の日に、特に仲良くしてくれて子どもの中の一人が「せんせい、どうがとったほうがいいよ!」などと気の利いたことを言ってくれたのでそれに乗っかって子どもに毎度せがまれるごとに「ハイハイ」と撮っていた4つか5つにわたる動画だ。
元々東京に来た当初はよく観ていたものだ。大体どんな動画かは覚えている。本当にただ日常を切り取ったようなものだが、中にはおませな女子がユーチューバーの真似事をして『せーの、パッパラチャンネルのパッパラパンダです!』などと自分で考えたチャンネル名を読み上げながら登場するものもあって微笑ましかった。
 ある動画で、いつも私の真横にいた2年生の女の子の目が赤くなっていることに気がついた。私は辞める日みんなの前でお花をもらってスピーチをしたのだが、もちろん子どもたちが見守る中恥ずかしいくらいに号泣した。意外とよく遊んでいた子達に限って「もう〜先生たったら泣いてやんの!もういいから続きあそぶで!!」という感じで「えー、サッパリしてるやん…」なんて思っていた。
 私の前ではけして泣かなかったけれど目を赤くしていたその子は、私が居なくなる日の前日に「ねーねー、先生、25日だけ学童に来るっていうのはどう?」なんて言った。
私は「東京って遠いんやで。てかなにそれ、先生イオンの割引か何か?20日30日5%オフ?!」などとしょうもない返しをしてしまったのだが家に帰って日付を眺めて、「あぁ、私がいついなくなるか覚えててくれたんだな」と気がついた。
そういえばその子は私と顔を合わせるごとに「先生と遊べるのももう◯日だね」などときちんと土日を飛び越して数えて私に教えてくれていたのだ。
私の人生でこんなに別れを惜しんでくれた人がいただろうか。
私の人生でこんなに好き放題してるだけの私を純粋に好いてくれた人達がいただろうか。
私は愛情枯渇地で生まれ育ったけれど、小学生達には普通の人間が一生のうちで触れられる愛情よりもはるかに大きな愛情をもらった。
その2年生の女の子が最終日にこっそりくれた手紙には「先生がいなくなるってしってさいきんつめたくしてしまってごめんね。でも先生のことおうえんしてるよ。とうきょうでがんばってね」と書いてあった。
何を私は仕事が見つからないくらいで「自分には居場所がない、生きている価値がない」等と思い込もうとしてたのか。
あのとき「毎月25日は私にとって特別な日にしよう」と心に決めていたのに25日を思い出したことはなかった。なんの認識もない、サラリーマンの給料日でもないただ延々続く憂鬱な時間の一部だった。
今の自分を見て子どもたちは悲しむだろうか。また笑顔を見せてくれるだろうか。
大体の小学生は3年生の夏休みを最後に学童を辞めてしまう。
私が学童に来たのとほぼ同じ時期に来たあの子達は今年3年生だから、夏が来る前に会わなければ一生会えなくなってしまうかもしれない。
本当はもっと自分が頑張れていれば自分自身が目印となって子どもたちが会いに来れる場所を絶対に作るんだと大見得切って言える。本当はその方がカッコいい。
だけど今の私には少し自信が足りない。
だから、甘えかもしれないけど一度だけ顔を見に行きます。
それと、明日は25日なので少しでも胸張って過ごせるように頑張ります。