ニート生活のすゝめ

 

ひとえにニート生活と言ってもお金がないことや居場所がないことへの焦燥感、たまに自分の日々の濃度の薄さに愕然とする程度で普段は案外楽しんでいる。

私のニート睡眠時間は大体5時間睡眠を2日やったのち12時間睡眠を取るというサイクルが多い。
これは割とあるあるなのだろうか。
10時に寝て15時に起きる。
やることがないのでぼんやりしながら自分という魂の受け皿が今置かれている状況を思い出す。
起きるのは3分の1は押入れをオシャレに改造して作った自作押入れベッドの上、3分の2はソファの上だ。
押入れベッドに問題がある訳ではない。「さあ寝るぞ」と意気込むと寝れなくなってしまうのでソファの上でいろいろとしながら寝落ち出来るのを待つ。

15時に目覚めた私は同居人がどうやら出かけているらしいことを確かめることが出来ればシャワーを浴びる。
同居人が出かけない日々が続くと銭湯に毎日通うハメになる。ひとっ風呂浴びてスッキリした私は大体卵と米を食べる。
時には味の素と塩だけで味付けして炒った卵とごはん、時にはみんな大好き卵かけご飯だ。
安価だけど何回食べても美味しい。安上がりで美味しいほどありがたいことはない。
食事を終えた私はエネルギーがあればパソコンを起動させアマゾンプライムで洋画を一本観る。大体お供にブラックコーヒーを淹れる。
雨の降る日なんかは最高に気分がいい。
映画を見終わると映画の考察などで頭をいっぱいにしながら自分に重ね合わせたり「あの人の言ってたこういうことってああいうことかな」等と連想ゲームをする。
雨じゃなければ日が落ちた頃に家を出る。ニートだが週に一度は東京に来てわりとすぐの頃に組んだバンドでスタジオに入るようにしている。
このスケジュールがあるおかげで救われている部分は大きいだろう。
その他には週に一、二度は削れていく貯金をさらに削るように街に飲みに出たり友達と約束をしたりする。
しかし大方は夜にカフェやマクドナルドやその辺の公園に居座って何かを書いている。
今夜の様にマックに居座って文章を書いているときもあればファミレスで絵を描いてるときも深夜の公園で曲を作っているときもある。
やることが三択もあるおかげで本当にひとりぼっちなわけではないような気がする。
カッコつけだが、鬱屈の中のきらめきが友達みたいになっているところがある。
午前3時を過ぎるとマックは追い出されてしまうのでそのまま自転車で旅に出たり、家に帰ってきて「今日は早く寝よう」とがんばってみたりする。
まあ大概寝れない。サイクル的に寝れるわけがない。
たまにどうしようもなく時間が経つのが遅く感じるときや何をしていいかわからないときがあるが、そういうときは大概体調が悪い。
一人酒をしている間にスピードを上げて飲みすぎていたり油っこいものを食べすぎるとこうなる。
アルコールが大好きと言うわけではない。
酒の味なんて25になってもよくわからない。
ストロングゼロもビールもまずいしコーラやマミーやカルピスやオレンジジュースの方が美味しい。
日本酒は「日本酒だ」としか思わないし焼酎も「焼酎だ」としか思わない。
酒を飲みたい気持ちがやってくるのは、何か理由をつけて自分に酔っていい時間を作るために他ならない。
ちょっと悪いことをしている不良少年と心は一緒かもしれない。
そうして午前3時を過ぎた頃、落ち着いて飲んでいるときとあれば破天荒に飲んでいるときもあるようなぼやっとした晩酌をしている。もしくは自転車や徒歩で旅をしている。
この時間私は心の冒険もしくは肉体的な冒険を行っているのだ。
私はこの時間が好きで好きで溜まらない。一日の中で一番好きな時間だ。
音楽を聴きながら自転車で坂を下って行ったときに視界が開けて飛び込んでくる新宿のビル群、住宅街の中に突如ポツンと存在する神社、どれも誰かにとっての世界で誰かにとって大切な思いがある場所で、
だからビルの一つ一つも神社も、同じように神様のように思える。
私は自分の大切に思うものを大切に思ってもらえたら嬉しいから神様なんて本当にいるかどうかはわからないけど見つけた神社にはお参りに行くようにしている。
ビルにはお参りに行けないが…

普段人と直接関わると心が汚れてしまうこともたくさんあるけど、こういった街中にある「誰かの願い」によって作られたものを眺めていると人のそういう部分だけを信じられるような気がして少し楽になる。
もちろんビルだって今後潰れたりもうあんなとこ行きたくねえって思いながら来ている人たちもたくさんいると思うのだが、ものというのは初期衝動の部分を強く形として保っていられるのがいいと思う。
勿論街を歩いている人間だって誰かの選択によって生まれることが出来たわけで、綺麗事を言いたい訳ではないけれど誰かの願いによって存在している人たちなのだ。
だが、人間は見た目がどんどん変わるし大人になっていくに連れてそういう初期衝動の部分に辿り着きにくくなる。

児童館で働いているとき、小学生たちのお母さんを見ていて「こんだけ大切な存在なら私も大切にしなきゃなあ」と思わせられる部分が多かった。
でも普通の生活で対面する相手(例えばしょうもなく絡んでくるおっさんに『この人も誰かにとっての大切な人で…』なんて考えることはできにくいだろう)

人間にすぐ疲れてしまう私はものを通して誰かの願いに触れて幸せになるくらいがちょうどいいのかもしれない。
街を歩くときは音楽を聴いていることが多いが、深夜の散歩のときはあえて無音を楽しんでみる。
ゴーっという音や車の走るザーっていう音だけが響くのが映画のワンシーンみたいで心が躍る。
散歩にも行かずに酔っ払いもせずに大人しく飲んでいるときは窓のサッシに腰掛けたり窓から身を乗り出して外を眺めたりしていることが多い。
こういうときは恋の曲を聴いていると気持ちが良かったりする。
一昨日の晩は窓の外を見ていたらこの前昼間にひなたぼっこをしているときに来た猫が現れた。至近距離まできてじっと見つめてくるので「友達になりたいなあ」と思った。
今話題のチャオチュールでも買っていればよかったなどと考えながら小一時間猫との対峙を楽しむ。
何を考えているのだろうか。
やがて日が昇り猫はどこかへと消え、ガッデムの鳴り止まないアラームが鳴り響く。ガッデムのアラームが鳴り響いている日は彼の出かける日であるので「ヨッシャ!」と思いつつ「ウルセエさっさと止めろ!!!!」とさっきまでの穏やかな気持ちはどこに行ったのだという現世的なモードに気持ちが移り変わり、ガッデムが出かける頃に安心して眠る。

一昨日の晩はそのまま眠れなかったので起きていたら窓の外に大家らしいおばさんと娘らしい小学生が来て掃除を始めた。
どうやら例のネコが私の窓の下で糞をしていったらしい。
掃除をしてくれているお礼を言おうと窓に近づいてみたがスッと無視され「まったく何も考えないでエサやる人がいるから…」
とおばさんが言い、小学生が「ほんっと糞の掃除すんのはこっちなんだから考えてほしいよね!!!」と言って去っていった。
違う…私じゃない…私じゃないんだ……
でもまあ、チャオチュールがあったらあげようかと思っていた時点で同罪だ。
ニート生活にもいろいろあるのだ。f:id:pirinzaraza:20190529023246j:image